だまされる側の責任:鈴木亘『だまされないための年金・医療・介護入門』

 先月、厚生労働省年金給付水準「50%台可能」とする試算を発表したとき、その前提条件の甘さが話題になりました。その条件とは、


これは「中位」のケースで、試算ではこれより悪いケースも想定はしているのですが、しかし基本ケースでここまで現実離れした条件を想定できるとは、一体どんな神経をしているのか、というわけです。確かに、過去10年間、賃金はマイナス基調で推移し、これから賃金が右肩上がりすると信じられる人は今の時代ほとんどいないし、年金の運用利回りの実績を見れば、彼らのファンドマネージャとしての実力は知れます。2001〜2007 年度の通期で 2.26%、直近の 19 年度は -3.53% 。どこから 4.1% という強気の数字が出てくるのか。民間企業の経営会議でこんな資料を出したら、社長以下経営陣から「ウチの会社潰したいのかお前」と言われても仕方ないところです。

 おそらくこの数値を出した官僚も、これが現実離れした数字であることは重々承知のうえでしょう。本当は、最初から「50%」という結論が先にあって、それを維持するために変数をいじっているのです。予測調査のときによくやる手法で、バックキャストと言います。ただ誤解のないように言っておくと、「よくやる」と言ったって、これは決して誉められたことではありません。本当は、変数(現在)から結論(未来)を導くべきなのは言うまでもありません。これはただの眼くらましです。厚生労働省は、2007年2月にも、今回と同じぐらい非現実的な試算を発表していますから、同省内部で「試算においては給付水準 50% を死守せよ」というルールが設定されているのでしょう。

 上のような事例を持ち出すまでもなく、厚生労働省社会保険庁が信用ならない組織だということは、今ではもう多くの国民が知っています。社保庁にいたっては数々の悪行がたたってついに解体されることが決まりました。まがりなりにも「お上」なんだから、最低限のモラルは守るだろうと日本人は思っていたのですが、残念ながら組織の力学は国民性とか民族の違いは関係なく適用されてしまうのです。監督を受けない組織は必ず腐敗するし、責任を取らなくていいなら人間は真面目に仕事をしない、自分の懐が痛まないならいくらでも無駄遣いができる、というのが年金問題の教訓です。

 でも悪いのは本当に、厚労省社保庁だけなのでしょうか。メディアは彼らの「背信」を糾弾し、国民もまた「騙された」と声をあげる。それはそれで意味はあるのですが、そもそも、国の行政を監視する責任は、その国の国民が負うべき義務のはずです。だって彼らは国民のサーヴァント(召使)なのだから。従って、こと政治行政の失態については、最終的に国民の側にも責任があるのだ ―― 本書は、少し厳しい口調でそう言います。

 それでは、だまされないためにどうすればよいのか。賢くなることです。年金・医療・介護の仕組みについて理解し、現状がどのような状況にあるのか把握し、そして将来の計画を立案することです。そして、それを邪魔する連中がいたら、戦うのです。たとえ相手が官僚や公務員でも。正義は我らにあり、です。本書は、そのための第一歩として、この専門家でも匙を投げたくなる複雑な問題について、極めて分かりやすく解説してくれる素晴らしい指南書です。素晴らしいだけでなく、おそらく読んだらかなり腹が立つはずです。正確に言えば、あなたが若ければ若いほど、腹がたつはずです。お年よりは、うーん、読まないほうがいいかも。

 本書は、年金についてよくある誤解を、一つ一つ丁寧に正していきます。まずよくあるのが、「自分が積み立てたお金を将来もらうために保険料を払っている」というものです。実際は、私たちが納めた保険料は、速攻で現在の年金受給者のために使われてなくなっています。これは日本が賦課方式という方法を採用しているためです。それぞれの時代の現役世代が、高齢者世代を支えるという世代間扶養です。そして実は、この方式を採用してしまったのが、いま年金制度が危機に瀕している根本的な原因なのです。

 というのも、ご存知のように現在は少子高齢化時代ですが、それはすなわち、年金をもらう人が多くて、払う人が少ない、ということを意味します。これが払う側の負担を大きくするのは、小学生にも分かる話です(国が10年来少子化についてワアワア騒いでいるのは、このためです)。今後どんどん負担は大きく、給付は少なくなっていくのは不可避なことで、1940 年生まれと 2005 年生まれの人の間では、8340 万円もの差が出ます(p.29)。これから生まれる子供たちは、残念ながら地獄を見る可能性が高い。一方、いまの老人世代は美しい世界だけを眼にやけつけて勝ち逃げできます(ちなみに私の世代は、およそ払った額と貰える額の差額で2000万円の損。ま、タイタニックに取り越される側ですな)。だから、いま国民年金の(特に若い世代の)未納率が上がりつづけているのは、非常に合理的な行動なのです。いま払っても将来もらえないのだから、払う方がどうかしている。それなら自分で積み立てた方が得だ、という考えは筋が通っています。かくして、国民年金はますます崩壊の一途を辿ります。

 政府もこういう状況を決して座視しているわけではありません。「年金改革」を次々と連発しています。ただその中身は究極的に二つしかない。金がないんだから、収入を増やすか支出を減らすしかないのです(p.46)。増税国債発行、そして給付カット。2008年には、年金を消費税で賄うためには 3.5 〜 12% も引き上げる必要がある、という衝撃的な試算が出ました。福田元首相のときに騒がれた後期高齢者医療制度も、老人の保険料率を上げるための仕組みなので、収入増に分類されます。一方、1999年の給付乗率カットや2004年のマクロ経済スライドなどによって、給付もバッサバッサとカットされています。

 しかし ―― こういう「改革」は本当の改革なのでしょうか。「断じて違う」と本書は言います。その理由は、一つにはこの程度では焼け石に水で、全然効果がないから。二つには、こういう議論は全部、本当の問題から目を逸らすためのまやかしに過ぎないから。根本の問題は賦課方式にあり。これを積立方式に変えれば、多くの問題は解決できる。これが本書の結論です。

 積立方式とは、文字通り、個人が若いうちにせっせと積み立てたお金を老後に受け取る仕組みです。この方式のいいところは、何と言っても公正で効率的なことです。少子高齢化しても、賦課方式にあるような世代間の不公平が生じないし、同世代内でも公正さが保たれる。払った人は払ったなりに受け取れて、払ってない人は払ってないなりに受け取れないのですから、これなら若者もせっせと積み立てるに違いありません。「アリとキリギリス」のアリ方式ですね。財政が破綻する心配もない。

 でもそれならなんで最初から積立方式じゃなかったの、という疑問が当然出てくると思いますが、実は最初から積立方式を導入するのは、ちょっと難しい。というのも、年金制度を創設したときに既に老人だった方々は、積立方式だと一円ももらえないので、この人たちがゴネるんです。「わしらを見捨てるのか」と。日本は温情ある国なので、そこで「Yes, We can」と言わずに賦課方式で面倒を見ることにしたわけです(たぶんこの事情はどの国もそれほど変わらないでしょう)。その結果、この「最初から老人(initial old)」世代は払わずにもらえるので笑いが止まりません。キリギリスが冬になったらアリの食物庫を襲撃するようなものです。本当は、本書が言うように、積立方式だって、特例措置でこの IO 世代にだけは「ただ乗り」を認めるとか、遺産から事後徴収するという方法で最初から導入することも可能なのですが(p.85)、今となっては後の祭りです。こうしてみると、年金問題というのもある意味、世代間対立の一局面なのだ、というのが分かります。

 本書は、全国民のための必読書だといえるでしょう。いや、あなたが、あたしは年金のお世話になんかならないわ、プロレタリアートどもとは違うわ、というほどのブルジョワなら別にいいのですが、でもそこまで自信のない方々は、今すぐに読みましょう。敵はなかなかに手ごわい。権力ももっているし屁理屈もいっちょまえにこねる。こういう連中を監視し、必要なら戦うためには、こちらも敵を知り己を知らなければならない。だまされる側にも責任がある。少なくとも政治の世界では。

 そうした無責任な政治家や官僚の行動を変えるのは、国民一人一人の社会保障問題への関心の高さや理解の深さ以外にありません。だまされないように理解を深め、無責任な法案が国会を素通りしないように目を光らす必要があります。政治家や官僚がいい加減な行動ができないように、国民がチェック機能を果たすこと、それこそがわが国の社会保障制度が立ち直る唯一の手段だと、私は思っています(p.266)。