データベースとアメリカ文化

 「アメリカ人ほどマーケティングが好きな国民はいない」とは、このブログでも度々紹介しているマッツァリーノの言葉です。実際、映画の結末を複数パターン用意して、試写会で一番ウケが良かったものを採用する、なんて話を聞くと、その筋金入りの実証主義には舌を巻きます(そしてここにも「みんなが良いと言う結末は本当に良い」という多数決主義が働いている)。

 ただ、アメリカ国民がみんな根っから調査分析大好きなのか、というと、どうもそうでもないようで、谷岡一郎『「社会調査」のウソ』によれば、「アメリカには、実証的根拠のない空虚な理論を経済政策や社会政策に採用したために、あたら公共財(税)を無駄に費やしてきたという、苦い経験がある」(p.102)。その反省から、実証データ重視の文化が育ったのです。

 私が生業とするデータベースという分野も、アメリカの実証主義文化と分かちがたく結びついてます。最近、アメリカではデータベースを使ったオンライン分析(OLAP)が本格化してきて、DBにもそれに対応する機能がばんばん搭載されていますし、OLAPに特化したサービスも数多く生み出されています。

 私も、そうした製品の日本代理店の説明を聞く機会がたまにあるのですが、そのたびに「確かに高機能で面白いが、果たして日本で使いこなせる組織がどれぐらいあるだろう?」と自問します。私の仕事も、どちらかというと大量データを使うDWHよりなので、CUBEやROLLUPなど多次元分析のオプションには本当に助けられています。でもやっぱり、データベースのそういう使い方は、「no data, no paper」の精神に支えられて成立している、というのが実感です。どんな興味深い分析結果が出ても、ユーザの側にそれを生かそうとする意志と能力がなければ、宝の持ち腐れです。

 私は、このデータ大好きの実証主義は、見習うべきアメリカの長所だと思っています。日本での議論というと、互いに感情論をぶつけあって声と態度のでかい方が勝つ、というパターンがよく見られますが、21世紀にもなるのにさすがにそればっかりでは……ね。

 データで重要なことが全部語りつくせるわけではないけど、自らの主張の根拠をデータによって提示するという方法論は、少なくとも大人な議論を行う一つのマナーではあります。

 DBエンジニアの使命の一つは、日本に実証主義の文化を根付かせることにあるのだ、と思いを新たにする今日この頃です。