聖女と悪女

 『紅一点論』の中にジャンヌ・ダルクヘレン・ケラーやの伝記の美化についての記述があったので思い出したのですが、以前、ジョン・リードについて調べていたときに、ヘレン・ケラーIWWWを支持する声明を出していた、という事実を知って驚いたことがあります。IWWWってみんな知らないでしょうけど、戦闘的なストで名を馳せた国際労働組合組織です。それどころか、自ら「社会主義者」を名乗り、ロシア革命を支持して尊敬する人物の名前に挙げたのが「レーニン」。おかげでFBIの要注意人物リストに載ってしまう始末。おいおい、ヘレン・ケラーって左翼だったの? そんなの全然聞いたことなかったぞ。

 それもそのはず。普通、私たちが読む伝記には、彼女の子供時代の話しか載っていないからです。87歳という長寿を全うしたというのに、彼女の後半生については何も知らされないまま話が終わる。その偏りの理由を、私はそのとき理解したのでした。斎藤美奈子が指摘するように、日本の伝記の人選はとかく政治嫌いの女傑嫌い。しかもアメリカといえば、世界的にも有名な共産主義不毛の地。日本を含む多くの国は、どの国でも社会主義共産主義が歴史的に重要な役割を演じた時代があるものです。ところが、アメリカでだけはそういう歴史がない。そんな国で女だてらに左翼の闘士みたいな発言をする人物を、子供向けの伝記で取り上げるためには、後半生を切り捨てるのはいわば必然の「教育的配慮」だったのです。

 私は、別にその配慮が悪いとは思いません。年端もいかぬ子供にいきなり左翼かぶれの政治思想を紹介するのはやはり慎重にならざるをえない。でも、大人になる過程のどこかで、幻想を打破する工程も必要です。『本当は怖いグリム童話』みたく、大人がもう一度読む伝記が用意されていればいいのに。イギリスには、リットン・ストレイチー以来の、都合の悪い真実を敢えて明るみに出す「暴露」を方法論に取り入れた伝記文学の伝統があるそうですが、日本にもそういう大人向け伝記文学が欲しい。それで、子供向けシリーズと同じラインナップで作ってみると、面白い対比ができるはず。