内田樹『街場の中国論』

死者の中国論:内田樹『街場の中国論』

 私が愛するアメリカの長編TVドラマ『デスパレートな妻たち』では、メアリー・アリス・ヤングという女性がナレーターを務めます。正確には、メアリーは第一話の冒頭で自殺するので、彼女の「死霊」です。死霊はもう、この世のしがらみとスッパリ縁が切れているので、誰に肩入れすることもなく、淡々とかつての友人たちの愛憎渦巻くドラマを見守ります。生前の彼女は、自殺を選ぶぐらいですからかなりのトラブルを抱えており、敵もいたのですが、死後は敵に対しても中立の立場を貫きます。

 このメアリーの冷たい語りが、『デス妻』の批評性を支えています。優れた批評物語には、「冷たい語り手」が欠かせません。流れ者や部外者が担うこともありますが、利害関係の無さという点では死者がダントツです。利害関係から死者のごとく自分を引き離す態度を「デタッチメント」と言います。よく「無関心」の意味で誤解されやすい言葉ですが、そうではありません。関心はあるけど、利害はない。それがデタッチメント。だから究極の批評は、死者が書いたものです。

 本書は徹頭徹尾デタッチメントの立場から書かれた中国論であり、巷に溢れるホットな中国論とは一線を画します。著者は中国の専門家ではないので、持っている情報は私たちと大差ありません。しかも著者はフランスのホテルで缶詰になって書いたので、情報不足に拍車がかかっています。だから本書を情報の質と量という点から批判するのはとても簡単です。でも、この本はそうやって読むと勿体無い。

 中国問題の専門家は、当然のことながら中国をめぐる利害関係にいやおうなく巻き込まれて(=コミットメントして)います。だから、自分が不利になるような発言や行動ができません。本人に自覚はなくとも、無意識にそういうことを避け、自分に都合のよい情報を選択的に語るようになる。誰だって仕事干されたらやってけないのだから、これを倫理的に非難するのは酷ですし、現実的に根絶も難しい。

 だから、見えにくいものを見、言いにくいことを言うためには、敢えて蚊帳の外にとどまる節度が必要になります。その分、情報は制限されるので、推理力と判断力が頼りです(ホームズの名前が現れるのが、それを象徴している)。でもこれは、今まさに渦中に巻き込まれている人から見ると、「ワイン片手に高みの見物か、いい身分だな素人は」という、無責任な態度にしか見えません。

 しかし、そんなこと言っても、著者は「わしもうどーでもえーけんね」と開き直るだけです。ハード・ナショナリストの皆さんは、死人が書いた本だと思って許してあげてください。死人に鞭打つのは、ナショナリストの美学に反するでしょう?