edo時代再び

 千葉県柏市の夏祭りに出かけてきました。町内会がかなり積極的に企画に参加していて、大きな公園を貸しきっての大規模な祭りでした。町内会がやっている屋台はテキヤの屋台に比べて格段に安くて美味しい。フランクフルトも綿飴も焼きそばも、テキヤで買えば300〜500円ぐらいは取られるのに、100円で食べられる。何十年かぶりに綿飴を食べ、ラムネをコキュコキュぷはーと飲んでご満悦。こういう祭りだとテキヤは強敵がいて大変だね。

 花火も文字通りの「灰かぶり席」という間近で見られて、頭上に見上げる形で大迫力でした。また来年も来よう。

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 渡辺さんの『逝きし世の面影』を読んでいて、「日本には欧米に比べて罵り言葉が少ない」という観察報告に突き当たる。そういえば時代は現代にくだって村上春樹もエッセイ『うずまき猫のみつけかた』で、確か同じ感想を述べていたなあ。ニュアンスとしては「英語の罵倒語はまことに豊かでカラフルで感心してしまう」という感じだったかな。そうしてみると、この点に関して日本語の性格はあまり変わっていないのかも。今でも罵倒語というと、アホ・バカ・マヌケの三つでほとんど済んでしまう。

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 マッツァリーノの『反社会学講座』に、江戸時代の人々は巧みに仕事を細分化してワークシェアリングすることで互いの生活を保障していた、という話が出てくるのですが、それがこないだ見た『仕事人』の暗殺技術の多彩さとも符合していて面白かった。彼らの中で安定したサラリーをもらってるのは、多分、下級役人の主水ぐらいです。残りの仕事人はみんな独立自営業の職人ばかり。飾り職人に棺桶屋、花屋に組紐屋に三味線屋に怪しげな何でも屋。暮し向きの描写を見ても、まあ零細と言って差し支えないでしょう。でも、この職種の多様さと本業で磨いた技術の高さが、彼らの暗殺者としての能力を支えている。これが工場の生産ラインで単純作業に従事する近代的な労働者だったら、物語としては成立しがたかったでしょう。悪がはびこり弱者が泣くのはいつの世も同じだとしても、『仕事人』の舞台設定が明治でも大正でもなく江戸時代であるのは、きっとこの意味でも必然性のあることだったのでしょう。