不幸になる自由。

 悩んでおられますね御大。確かに昔の山形さんなら「迷わずに『不幸になる自由を与えよ、酒もポルノも自由に選ばせろ』と主張した」ことでしょう。「上がるも下がるも自己責任。自由勝手にやりたまえ」と。

 山形さんは、いつでも明晰に語る(自分が迷っている、ということまではっきり語るのがいい)のだけど、でも私は昔から読んでいて腑に落ちないことが一つありました。こんなこと言うとファン失格だけど、結局山形さんがどんな世界を望んでいるのか、私にゃ具体的にイメージできないのです。山形さんは、現状を分析したり他人を批判するときには本当に鋭い。でも、宮崎哲弥福田和也内田樹といった批判される保守的な論客の面々がかなり具体的で一貫した社会の構想を提出するのに対して、山形さんが直接そういうものを語ることは少ない。そして、途切れ途切れに語られるヴィジョンらしきものも、「市場制民主主義」のような今すぐはどうこうできない大風呂敷か、風呂敷は小さくても個々に一貫性がないかのどちらか。

 昔の(95-00年ぐらいかな)山形さんの文章を読めば、リバタリアニズムに親近感を持っていることはすぐ分かります。レイモンドを高く評価して、インターネットの可能性に賭けていた頃の山形さんは、特にその主張が強く出る(今のネオコンばりばりのレイモンドをどう思っているんだろう?)。宮崎哲弥『正義の見方』書評(1997年)でも、明らかに自由を原理にした社会構想を口にしている。

「血縁や地縁ぬきで金も労働も提供される。そういうものづくりの新システムがもっと真剣にテストされなくては。スターリングが『ネットの中の島々』で描いたライゾーム社のような社会経済システムをマジに考えなくては。今はそういう時期なのだ。」

「それが今さら家族やコミュニティ? 倫理やアイデンティティのねつ造用にそんなものを人工的に維持したって、無理がかさんでつらいだけ。だいたいそれが維持できりゃ苦労しない。家族とか地縁・血縁共同体がうっとうしくて嫌だから、みんな都市に移住する。だから都市人口比率が上がり続けてるのだ。」

 血縁も地縁も抜きにして人々を結びつける仕組み。きっと網野善彦の「無縁の原理」や、シュティルナーの「エゴイスト連合」みたいなものを夢想していたのでしょう。あるいは、本人は嫌な顔するでしょうけどドゥルーズの描いた遊牧民の世界(ノマディズム)か。もちろん、具体的には Linux 開発に使われたのバザール方式に一番のインスピレーションを受けている。それどころか、ラファティの書評では、エゴイスト同士の血みどろのぶつかり合いすら肯定します。

「己の能力を極限まで発揮し、そのためには他人を一顧だにせず蹂躙し、他の存在と死闘をくり広げて潰え死ぬ」。

 自由の徹底もここまで来ればあっぱれなもの。80-90年代の日本では、広く受けた考えです。世間をにぎわせた早稲田のスーパーフリー事件だって、この立場からは許される。

 でも不思議なのはこれ以降の山形さんの思考遍歴です。ここからアナーキズムまではあと一歩のはずだけど、でも「無秩序の戦いと秩序の戦い。」(2001)を読む限り、アナーキズムには警戒を隠さない(というか、整理がついていないというか、腰が引けているというか)。また、同じリバタリアニストでも原理主義的なアイン・ランドは気に入らないという(2000年)。

 自由の道を突っ走るのにブレーキをかけたのは、山形さんの本業(途上国の近代化支援)での経験でしょう。お気楽ご気楽自由放任を徹底すれば、途上国が貧しい理由も自己責任。「努力が足りないのです。もっと頑張りなさい。でもこっちも容赦しないよ」で終わりです。でも、実際に貧困の現場を見てしまうと、そんなことは言えなくなる。余計なおせっかいと知りながら、手を出さざるをえなくなる。この山形さんの葛藤は「バングラデシュの山椒魚たち。」や、「富岡製糸工場のすごい技術移転」によく現れています。

 そうした経験からくる葛藤が、山形さんの思考に一段と深みを与えていることは、間違いありません。ランドみたいな単純な原理主義に反感を持ってしまうのは、この実際家としての側面ゆえでしょう。自分の生理としては、自由至上主義へ突っ走りたい根源的な衝動を感じる。でも世界へ目を転じれば、その原理が幾多の犠牲と不幸を強いてはじめて成立する非現実的なものだと分かってしまう。両極から引っ張られて引き裂かれ、どっちつかずになったまま、現実にできることといえば、バングラデシュで目の前の小石を拾い上げることぐらい・・・か。ネグロポンティが言うように教育なんて自発的に学ぶ人間にだけ自由にやらせればいいはずなのに、啓蒙という古臭い作業に手を染めてしまうのも、きっとその葛藤のなせる業でしょう。昔の山形さんなら、ゆとり教育批判なんて、信条上、絶対に出てこないはずの意見です。山形さんは、そこかしこで矛盾している。

 山形さんが社会の未来形態を自信を持って語れない事情は、多分こんなところだと思います。ご本人はそういう自分に苛立ちを感じるかもしれないけど、でも私は、そのような中途半端な立場も、決して悪いものではない、と期待しています。矛盾を抱えることは理論家としては欠点でも実際家としては欠点ではありません。それに・・・これ言うときっと怒られると思うんですけど、結局山形さんの着地点て、氏が批判する敵たちと同じところ(地縁・血縁・幻想何でも使った共同体の再構築)に回帰するんじゃないかな、とちょびっとだけ思うんですよね。