玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』

若者よ、○○○から仕事を取り戻せ!:玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』

 最近ちょっと景気も上向いてきて、一時期ほど切迫したリストラの話題や就職氷河期の話は聞かなくなりました。代わりに浮上してきたのが、ニートやフリーターたちがこのまま年を取った場合の長期的な不安の方です。相変わらず厳しい状況ではあるけど、みんな長期的なことまで心配する余裕ができてきた、というのは、とりあえず逼迫していない証拠です。

 ところで、随分話題になって言葉だけは今や誰でも知っているリストラ=首切りは、実際のところそんなに沢山行われたのでしょうか。確かに、養うべき妻子も住宅ローンもある働き盛りの中高年が突如収入ゼロ円になる、というのは劇的な話で、メディアは好んでこの構図を報じていました。だから、私たちは「リストラ」と聞くと、自動的に「惨めな中高年」を思い浮かべるようになっています。でも・・・・・・本当にそんなに沢山、中高年ってリストラにあったの? 皆さん、ご自分でそういう実例をご存知でしょうか。案外「声はすれど姿は見えず」だったりして。

 それもそのはず、実は、不況期に中高年で実際に失業した人は、とっても少ないのです。失業者全体に占める割合からすれば、全然問題にならないぐらい低い。本書は、まずこの重要な指摘から始まります。それがなぜかと言えば、なんだかんだいって日本は、正社員をクビするのが法律上大変難しい国だからです。特に整理解雇を行う場合は、厳しい制約条件をクリアしないと「解雇権濫用」と見なされてしまう。OECDは「日本をOECD加盟国のなかで最も実質的に解雇規制がきびしい国の一つ」と評価しています(p.58)。日本のサラリーマンはかなり法によって守られているのです。

 もっとも、会社がバサバサ解雇を断行できないことは、窓際送りやセクハラのような間接的な嫌がらせによって「自主退社」へ追い込む、という陰湿な手法がはびこる原因でもあります。外資系みたいに「君は今日でクビです。明日から来なくていいです。あ、IDは抹消済みなので、今日は通用口から帰ってください」とバッサリ斬れるなら、セガパソナルームなんて手間のかかる方法を採る必要はありませんでした。アウトソーシング派遣社員が企業に歓迎されたのも、「必要なときだけ呼んで、財布が苦しくなったら別れられる」という「弾力的な労働力の調整」が可能だからです。

 えーと、ちょっと話が逸れましたね。そう、会社としては、コストカットのために社員を減らしたい。でも今抱えている社員はクビにできない。じゃあどうやって人員削減するかというと・・・・・・方法は一つしかありません。それは・・・

 未来の社員を減らすこと

 ずばり新規採用の見送りです。「そろそろ家計が苦しいから子供はここまでにしようか」と決める両親と同じで、将来社員(子供)になる可能性のある「潜在社員」たちを切り捨てることによって、会社は生き残りを図ったのです。未来を担う若手を育てないということは、将来的には大きな問題を残すけど、でもこれ自体を責められることではありません。だって他に当座を凌ぐ道がないんだもの。しかし、話が怪しくなるのはここからです。

 このような苦肉の策によって何とか急場を凌げそうな目途がついたころ、社会に不思議な若者批判が広まり始めます。いわく「最近の若者はこらえ性がなくて、すぐに仕事を投げ出す」「やっぱりパラサイト・シングルは甘えている」「仕事を趣味と勘違いしているのではないか」、等々。要は、若者に仕事がない、職についても真剣に取り組まずすぐ投げ出すのは「全部本人のせいだ」という批判です。特に、パラサイト・シングルという造語が一世を風靡したことは記憶に新しい。もちろん、自己責任論もこのプロパガンダに一役買っている。

 本書は、こうした若者批判が、ある都合の悪い事実の隠蔽のために作り出されたイデオロギーであることを、容赦なく指摘します。あまつさえ、それをデータによって実証的に裏付けるのだから凄い。その「不都合な事実」こそ、「中高年の既得権を守るために若年層を犠牲にした」ことです。

 社会の多数を占める中高年は、若年の就業機会の減少が突き詰めれば中高年自身の雇用の犠牲になっていることを、暗黙のうちに自覚している。そのため、本来は「本人のせいではない」若年失業をあえて強調しようとはしない。(p.59)

 中高年は、気付いてほしくないのです。自分たちが若年を穴に突き落として自らの保身を図ったのだ、という事実に。何としても、若者が自分で望んで穴に落ちたことにしてもらわないと困る。メディアを牛耳っているのも、当然中高年ですから、その手のプロパガンダはお手のもの。「リストラに苦しむ中高年」というお涙頂戴物語で同情を誘うのなんて朝飯前。フリーターが若者全体から見れば一部の現象なのに、メディアがこれを大々的に取り上げるのも、それが彼らにとって大変都合のよい存在だからです。「見たまえ、あの自堕落さを。奴らが苦しむのも自業自得というもの。はっはっは」。

 しかし統計データは、この作られた物語を裏切ります。「若者の意識としては、正社員として働きたいと思っている人々も多い。その傾向は長期的にむしろ強まってさえいる」(p.78)のだから。

 はっきり言いましょう。みなさんに良い仕事がないのは、大人のせいなのです。(p.236)

 うむ。敵は分かった。それでは、具体的にどう反撃すればいいのか。残る問題はその方法論です。古来より、弱者がこの厳しい世界を生き残る術は多くありません。一つは、強者の庇護を受けること。これは、要するに大企業とか地域的な共同体とか大きなイエとかそういうものの傘下に入って守ってもらうことです。でも、現代はそれがとても難しい時代です。地縁・血縁の結びつきはズタズタだし、一度ドロップアウトした若者が再び安定した企業に職を得ることも難しい。

 そこで、本書が強く勧める手段は、もう一つのものです。それは弱者同士が連帯して数を恃むこと。若年層は、相対的に社会的弱者です。中高年に比べればお金もないし、地位も低い。よって権力もない。勝っているのは体力ぐらいだけど、それが武器になるのはスポーツ業界ぐらい。となれば、一人で勝てない喧嘩は徒党を組んで挑むほかありますまい。本書が特に重視するのは、「ウィーク・タイズ弱い紐帯)」という概念。平たく言えば「広く浅い」付き合いのことです(若者はこういう付き合いを嫌って「狭く深い」付き合いを好むようになっていますが、そこにもまた何らかの操作が介在している可能性を考えた方がいい。だってこれ、支配する側にとっては敵を分断できるすっごい便利な思想ですもの)。

 著者は、転職という身近な例をとって、ウィーク・タイズの有効性を実証します。いわく、会社の外に信頼できるアドバイスをくれる友人が多いほど、転職も満足のいくものになる傾向がある。また、そういう良い話自体を、友人たちも持ってきてくれる可能性が高くなる。これは独立開業を試みるときにも当てはまります。これらがデータによって実証されていく過程は、推理ものの謎解きのように爽快です。

 かつてマルクスは「万国の労働者よ、団結せよ」と説きました。当時の労働者は、いまからは比べものにならないほど踏んだり蹴ったりの弱者も弱者。しかも強者の庇護なんて期待できなかった。だからこそ、マルクスの言葉は彼らに圧倒的に支持されました。もしマルクスが現代の日本を見たら、やはり「若者よ、団結せよ(緩やかでいいから)」と言うでしょう。

 さて、この文章のタイトルの「○○○」に何が入るか、もうお分かりでしょう ―― 若者よ、中高年から仕事を取り戻せ! ―― この奪還論は、歪みを矯正するために、今はある程度許されるべきだ、と私は思います。連帯することに慣れていない若年層には、接着剤の助けが必要なのです。何の共通項もないアトム的な個人を結びつける接着剤 ―― それが「共通の敵」です。ちょうどナポレオンの時代のフランスが、四面楚歌の状況でナショナリズムを燃え上がらせ、がちっとした国民国家を作ることに成功したように、若年層にも撃つべき敵が必要です。

 本書は、きっと著者の意図を超えて、若年 VS 中高年 の対決における、一方の側に強力な論拠を与えるでしょう。それは、「悪いのは奴らだ、奴らから奪い返せ」という奪還論のイデオロギーを正当化するという大変危険な側面を持つことにもなります。これがやがて夜郎自大な自己正当化に変わっていく可能性は十分あるでしょう。その匙加減をどう調節するかは、この本を受け取った若年層にとって、近い将来の課題となるに違いありません。