軍隊とは理不尽なところさ

 年末になって、明治大学応援団のいじめによる自殺者が出た事件のビデオテープが出てきたことによって急展開を迎えていますが、私も体育会のメンタリティを深く憎悪する人間として、この件にはコメントしないわけにはいきません。

 私も小〜高校までは運動部に所属していましたし、そこでは気持ちのいい友達にも何人か出会いましたが、結局、体育会のノリに最後まで馴染めず、大学に入ると同時に体育会とは永遠にオサラバすることに決めました。それ以来、私の精神は軟弱な文化系一本槍で構成されています。「根性」とか「我慢」とか「熱血」などという文字はとうに私の辞書からは削除されました。

 今回の事件に関しては、「一部の馬鹿な連中の暴走によって、伝統ある応援団全体が批判されている」という意見を耳にしますが、そんなのウソです。これは決して突発的な事故ではなく、体育会という存在そのものが宿命的に持つ病弊の現れに過ぎません。

 鉄拳制裁やいじめと区別がつかないシゴキのような体育会の理不尽な仕打ち(例えばこちらの6月18日の日記で活写されているような)については、これまでも何度となく「なぜこんな理不尽なことがまかり通るのか! 許せん!」という批判の声があがっています。でもこの批判は当の体育会系の人間には痛くも痒くもないし、それで「理不尽な仕打ち」が減ることもない。絶対にない。なぜなら、彼らはまさに理不尽であることを知りながら、そういう行為ばかりを自覚的に選んで遂行しているからです。

 それはなぜか? 体育会の教育方法が、もともと戦場でどんな理不尽な命令にも絶対服従のソルジャーを養成するために作られたプログラムだからです。「小官はそのような人倫にもとる作戦には参加できません」と口応えする兵士など戦場では無用の長物。上官に「死ね」といわれれば一切の疑問を持たず特攻していく忠勇なる兵士こそが、全ての軍隊が喉から手が出るほど欲する人材です。「軍隊とは理不尽なところ」(@クワトロ大尉)なのです。

 「でも現代では日本が戦争に巻き込まれる可能性は低いのに、なぜ体育会は消滅しないの?」

 いい質問です。確かにリアルな意味での戦争は、今の日本にはありません。でも、決して戦場がなくなったわけではないのです。

 そういえばそろそろ大学生の皆さんは就職活動のシーズンですね。「体育会系は就職に有利だ」という風説を、一度は聞いたことがあるんじゃないでしょうか。「だれそれは○○会の先輩のコネで××商事からもう内定が出たらしい」なんて噂が飛び交う季節。自分自身、体育会系であることをアピールポイントにしている人もいるでしょう。そして事実、体育会であることがアピールポイントになる企業は少なくありません。

 そう、お察しのとおり、ソルジャーは現代日本においてもバッチリ必要とされているのです。企業側からの需要がある限り、体育会の供給もなくなることはない。これは経済の基本法則が教える真理です。だから、いくら批判を受けようとも、体育会がこの社会の構造にビルトインされている以上は、腫瘍の切除手術のように単純に切り出すことはできません。本当に体育会的メンタリティをなくしたいなら、社会のありようの方から変えて需要を絶つという、迂遠な道のりを辿る覚悟を決めるほかない。だから、体育会はどれほどその非論理性や理不尽性を批判されても平気なのです。

 体育会系であることをウリに就活している皆さん、もちろん、自分が勝負できる武器を持つことは大事なことですし、その意味で何を武器にしてもかまいはしないのですが、でも、自分が一体どういう存在として企業から必要とされているのかは、一度考えてみても損はないと思います。