推定有罪

 9時からの『それでもボクはやってない』を見ました。痴漢冤罪という地味で難しいテーマを粘り強く作り上げた佳作でした。

 冤罪物の映画としては往年の名作『真昼の暗黒』『十二人の怒れる男』(こっちは正確には冤罪かどうかは最後までわからないけど)に比べて迫力は劣るものの、裁判についての説明もうるさくないように巧くまとめていたし、小日向さんの感情を押し殺した裁判官役も良かった。『喜多善男』とよりもこっちの方がフィットする役柄な気がします。

 日本も先進国の例に漏れず、裁判の原則は「推定無罪」、つまり「疑わしきは罰せず」を採用していますが、なぜか痴漢事件に関してのみは「推定有罪」がまかり通っている。何でなんでしょうね? 私には合理的な理由が思い当たらない。もし推定有罪を裁判の原則として適用していたら、三浦和義なんて20年前に状況証拠のみであっさり有罪だったろうし、それどころか私たちのほぼ全員をいつでもどんな事件で有罪にすることも可能になってしまう。

 なぜなら、もし殺人事件の容疑で裁判にかけられたとき、推定有罪の原則に従うなら、被告人が無罪を勝ち取るためには「やっていないことの証明」をしなければならなくなるからです。これは恐ろしく困難です。何かが「ある」ことを証明することよりも、「ない」ことを証明することの方が、圧倒的にコストが高い。

 今日の『やっていない』の中でも、弁護側はなんとかして主人公が痴漢を「やっていない」ことを立証しようと努力していた。でもこれは絶望的に難しいし、本当はあってはならない。裁判では立証責任は検察側にあるのだから、検察側が「被告が犯人である」ことの証明が出来ない限り、有罪にしてはいけない。小日向裁判官が最後に読み上げていた判決文は、まさに推定有罪に基づいて「被告がやっていないとは言い切れないから有罪」というものでした。繰り返しになるけど、もしこのやり方が認められるなら、私たちはみんないつでも実刑にされる可能性がある。

 そういうことを観る者に考えさせる点で、非常にいい映画でした。