暗く狭いバケツの底:町山智浩『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』

 『ER』の第2シーズンを見ていたとき、二つ、アメリカ特有の社会事情が背景にあって理解できなかったシーンがありました。一つは、貧民街のアパートでアタマの弱い主婦が何かの薬品を製造していたことが原因で火事が起きるエピソードなのだけど(救急隊員のラウルがここで命を落としてしまう)、薬品名が早口ですぐには聞き取れなかった。全員すぐにピンと来ていたので、何か麻薬なのだろう、と思ったけど、それ以上は分かりませんでした。

 もう一つは、ジョージ・クルーニー扮する小児科医のロスが、脳に疾患のある患者を入院させようとしたときに、その患者の主治医が横槍を入れてストップをかけたシーン。「彼女に治療は必要ない。退院させるべきだ」という主治医に対し、ロスは怒って「そうかやっぱりお前のとこの保険会社だったか。いくらもらうんだ?」とくってかかっていたけど、ここも日本人には分かりにくい。日本ではむしろ、検査や手術をすればするほど医者と病院が儲かるようになっているので、医者に無駄な検査をさせるインセンティブが働くことが問題になっています。

 この二つの疑問は、ありがたいことに『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』を読んですぐに氷解しました。

 まず、へタレな奥さんが作っていた麻薬はメタンフェタミン、何のことはない、日本でも「ヒロポン」の略称で親しまれている覚せい剤でした。「アメリカの風邪薬から台所のレンジとナベで簡単に精製できる。爆発の危険性があるが、わずか数ドルの薬が何十倍もの値段で売れる」そうで、「家庭内シャブ工場は全米で増え続けて大問題になっている。最近は風邪薬を買うのに身分証明書が必要になってしまった」(p.118)。

 二つ目の健康保険の問題は、HMO(健康維持機構)というアメリカの保険システム。これは私たちの知っている保険制度とは大分違います。もともと80年代に高騰する医療費を抑制するために導入された制度で、保険会社が、医療サービスの質や量にはかかわらず、患者一人当たり定額を医療機関に支払うというもの。平たく言うと、医者に対する裁量労働制かな。だから医者は、懸命に診てもいい加減に診ても報酬に差がない、ということになる。しかも、それに追い討ちをかけるのが、保険会社から医者に支払われる「奨励金」。

 医師は治療の質や量と関係なく、HMOから一定の給料をもらっており、投薬や治療を拒否すればするほど、保険会社の支出を減らしたと評価されて奨励金をもらえる。
 同じように、保険会社の職員も、投薬や治療を拒否すればするほど給料が上がる。彼らは医学の知識はゼロだし、その患者に会ったこともないまま、治療拒否を乱発するのだ! (p.128)

 まさに日本とは正反対の状況だけど、これも対岸の火事とばかり言ってられない。日本でも医療費高騰は大問題だし、4月にはこれを食い止めるために後期高齢者医療制度も導入されました(ずいぶん叩かれたけど、あの制度の狙い自体は、私は正しいと思う。サービスに対する受益者負担モラル・ハザードを防止するために有効だから)。いずれアメリカの後追いで、同じような制度を導入しようという意見が出てきてもおかしくない。

 本書は、それ以外にもアメリカの「普通の人々」および「ちょっと普通でない人々」の等身大の姿をヴィヴィッドな筆致で伝えてくれる好著です。ゲラゲラ笑いながら読めるけど、時々その笑いがひきつり、寒気がしてくる。前著『USAカニバケツ』と比較して思うのは、やはり福音派の政治的台頭を受けてでしょう、宗教問題が多く取り上げられていることです。

 「聖書以外を信じるな」「進化論は悪魔のウソ」「中絶は殺人」「ゲイは地獄に行く」・・・・・・「ハリー・ポッターは悪魔の手先であり、神の敵である」と子供に諭し、イスラム教と戦う「神の戦士」を育成することこそ急務であると叫ぶ宣教師。聖書以外は読まないことを誇りとし、科学を神の権威に楯突く不虔の業として禁止する。人間には神から自然を利用し尽くす権利を与えられていると信じているので、環境破壊にも無頓着。

 彼ら福音派は、もともと政治に関わらず、来世での救済を信じて半ば自分たちのローカルな共同体に引きこもって暮らす敬虔素朴な人々でした。でも、その巨大な票田としての可能性に気付いた共和党が取り込みに成功し、ブッシュの長期政権を支える屋台骨となった。今回、大統領も議会も民主党に奪われたのは、多くのアメリカ人がこうした福音派の極端な主張にいい加減うんざりしていた、ということも背景にある。福音派と政治の複雑怪奇な関係については、『アメリカの宗教右派』が良い見通しを与えてくれます。町山の本では、福音派はほとんど原理主義と同義のように単純化されているけど、実は本当に極端な原理主義福音派の中でも異端視されているということ、福音派と一口に言うけど、そのうまい定義も難しいということが分かります。

P.S.
 前作から引き続いてご登場の共和党御用コメンテーターアン・コールターは、いまも健在なようで、ガックリ。この人がどんな発言をしているかは、町山の本を読むか、本人のWebサイトで確認してください。けっこう、ガックリきますから。