早すぎた文化人類学者:ハーマン・メルヴィル『白鯨』

 この小説を私が初めて読んだのは、中学生のとき。そのときは、海洋冒険小説としてしか読むことができませんでした。いや、確かに海洋冒険小説でもあるし、そのジャンルでも第一級の作品で、十分楽しく読むことはできたのですが、でも、それはこの小説の一部でしかない。何を言っているのか分からない抽象的で難解な箇所や、延々無駄話が展開されている箇所も多く、子供の頭では、正直読むのがしんどかったです(特に宗教談義は、今読んでも非キリスト教徒には絶望的に理解しがたい)。

 大体、この小説、海洋小説と言われながら、主人公がなかなか海に出ないのです。イシュメール(放浪者)の名前よろしく、あっちふらふらこっちふらふら、上巻の半分までは、こいつが港町でくだ巻いているだけの話です。またこのイシュメールが、語り手という役割もあって、神経症的によく喋ります(反対に、もう一人の主人公エイハブはほとんど喋りません。二人は逃亡/挑戦、デタッチメント/コミットメントという反対の方法で、ともに人生の虚無を克服しようと図る、対になる存在です)。

 この小説の最大の魅力は、熱弁と沈黙、形而上と形而下、高貴さと卑俗さといった雑多なまでの要素を何の遠慮もなく混ぜ合わせてしまったところにあります。それは、イシュメールたちが乗り込む船のメンバー構成にもよく現れています。

 自称「敬虔なクリスチャン」だけど、深いニヒリズムに侵されて人生を傍観するだけの主人公イシュメール、太平洋の小島からやってきた人食い族の好漢クイークェグ、アフリカ出身の黒人に中東出身の異教徒。そしてそれらを束ねるのは、半分「あっちの世界」に行ってしまった偏屈船長のエイハブ。この多彩な人々が乗り込む運命の船の名はピークォド。白人たちに最初に滅ぼされたネイティブ・アメリカンの部族の名前です(作中でもはっきり言明されている)。こうした雑多な人種民族からなるの寄せ集め所帯が「巨大で凶暴なホワイト」に立ち向かい、そして完膚なきまでに負ける ―― 『白鯨』はそういう話です。アメリカに入植したばかりの移民たちは、これが何の喩えであるか、よほど鈍い人間でなければ気付いたはずです。

 メルヴィルの筆致には、クイークェグたちへの蔑視表現は一切見出せません。むしろ、彼らの思考や文化の様式に独自の合理性を認め、それを冷静に記述しようと努めている。これは、1851年という時代においては、稀有な例です。「それぞれの民族や人種には固有の文化や論理があるのであり、一方的な視点から優劣をつけることはできない」という文化相対的な考えは、当時のアメリカにおいて決して常識ではなかったからです。まだマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』も、レヴィ=ストロースの『野生の思考』も書かれていない時代に、メルヴィルはその地点に辿り着いている。

 20世紀に入ってからでさえ、アメリカは、KKK団が黒人を成敗してまわる『クランズマン』(そのままずばり「クランの男」というタイトルだ)に喝采を送り、『風と共に去りぬ』のような反動小説に熱狂していました。メルヴィルが生前まったく評価されず、彼が筆一本では食っていけなかったのも、無理のないことです。彼は、アメリカ人が最も見たくないものを早々と暴いてしまった作家だったから。他にも南北戦争を皮肉った小説を書いたり、まだ生々しい傷口を敢えて爪を突き立てるような仕打ちをする彼に、人気が出るわけがない。最初に評価を得た地がアメリカではなくイギリスだったことも、そうした事情と無関係ではないでしょう。

 ちなみに余談なのですけど、日本でもお馴染みコーヒーショップのスターバックスの名前の由来の一つは、ピークォド号が誇る知勇兼備の一等航海士スターバックです(スターバックスのシンボルは、人魚のセイレーン)。そして開業当時、もう一つ考えられていた名前の候補は、ずばり「ピークォド」。私は、こちらもとても素敵な名前だったと思うな。そしたら私たちは今ごろ「スタバ寄ろうぜ」の代わりに「ピークォド寄ろうぜ」と言っていたかもしれない。店長はもちろん義足だ。