受験国語の必勝法、教えます:石原千秋『秘伝 中学入試国語読解法』

 さて、そろそろ受験シーズンも佳境に入ってまいりましたね。本日は、珍しく速攻で受験(もっと狭く言うと中学受験の国語)に役立つハウツー本を紹介いたしましょう。受験生諸君および親御さんは必見ですぞ。その名も『秘伝 中学入試国語読解法』。新潮選書という教養書シリーズの一冊で、普通の受験参考書のコーナーには並んでいません。それはなぜかというとですね、危険すぎて参考書の棚には置けないからです。気になるでしょう? フフフ・・・・・・。

 そもそも、国語という教科は、学校で教えられる教科の中でも非常に変わった存在です。数学や物理、化学のような理系科目は、徹頭徹尾、事実についてのみ関わるため、一義的な正解があります。歴史や地理といった社会科目は、それに比べると少し緩いものの、それでも基本的にはやはり教えることは「事実」であり、それほど解答する側も採点する側も、正解の基準について悩むことはありません。英語にしても、文法という明確な正解の基準があるので、問題は起きません。ところが、国語だけは、昔からこの点について議論が絶えない。

 生徒の側も、この教科にまつわる胡散臭さに何となく気付いていて、陰に陽に反抗的な態度を見せる。私の記憶を遡っても、数学や英語が出来る生徒は素直に賞賛の的になっていましたが、国語の出来る生徒は、何となく不吉な物でも見るような目で見られていた。

 その理由は何か。本書は、身も蓋もなく答えます ―― 国語の実態は道徳教育であり、生徒の心に点数を付けようとする教科だからだ、と。国語とは、学校、もっと大きく見れば国家が望む人間の類型に生徒を嵌め込み、馴致させることを裏の目的としているのです。

「大人になること」、これが国語という教科の目標なのである。
 ・・・・・・入試国語にとって大切なことは、この場合の「大人」とは社会の秩序を内面化した人物のことを指すということだ。「社会秩序なんて糞食らえ!」というような大人は入試の目標ではない。・・・・・・ある程度の批評意識を持ちながらも、基本的には社会の秩序を肯定し、社会に満足している「大人」が目標なのである。それがどのような階層に属しているかは改めて言うまでもないだろう。「知的」で「大人」の文章を書くことは、上層階層の徴の一つなのである。(pp.92-3)

 国語の点数が良い子供が白眼視される理由、それは、彼らが「オレたちの仲間」ではなく、「教師の手先」であることのサインだからです。程度に差はあれアナーキーでロックな精神が芽生える思春期の子供は、こういうところに極めて敏感になる。

 でもそうはいっても、点数を取らないことには始まらない。ロックは卒業してからでもできるでしょ、晩御飯カツ丼でいい? というのも親御さんの(そして当の生徒たちの)偽らざる心境。じゃあどうすればいいか? 答えは一つ、学校側の「本当の目的」が分かれば、国語を支配する裏のルールもまた分かる。それを逆手にとれば、国語で点をとることは、数学や英語で点を取るのと同じぐらい散文的な技術論に落とし込むが可能になるのです。「魂を売り渡す」ことなく国語で点を取れるようになる、ということです。

 そこで、満を持してこちらもエース投入です。著者の石原千秋は、日本近代文学研究を専門とするテクスト分析のプロフェッショナル。本書は、著者が息子の中学受験に成り行きで付き合うことになった経験を生かして書かれた最強の受験国語の参考書です。第一部は、実際に著者と息子が受験勉強に取り掛かるところから見事合格を果たし、楽しい中学生ライフを満喫するに至るまでのレポート(子供が小さいからこそ出来た芸当、というのはある。もし高校受験だったらプライバシーにうるさくなっていたでしょう)。第二部は、その体験から得た知見にテクスト分析の理論を適用した入試問題の解法の実演です。第一部は受験生を持つ親向け、第二部は受験生向けで、親子で読めば、無意味な国語コンプレックスから解放されるでしょう。

 第一部のいいところは、著者が受験業界の人間ではないため、「良いものは良い、悪いものは悪い」と正直に書いているところです。著者の家庭は、塾に市進学院を、第一志望の中学に桐朋を選んでいるのですが、それ以外にも、四谷大塚など名前の知れた塾や学校が実名をあげて評価されます。もちろん一人の親が得られる情報は限られているけど、それでも著者はなるべく公正な態度を保つべく努力している。学習院の不気味な秘密主義や巣鴨の「生徒の教育は馬の調教と同じ」という主張、学芸大や早稲田実業など附属高校の構造的な問題点など、受験業界の媒体では怖くて書けない内容もズバズバ書いてしまう。それ以外にも、受験生の子を持つ親ならではの悩みや、内申書への痛烈な批判など、親御さんならきっと読んで共感することろが多いでしょう。私も一貫して公立学校に通っていたので、内申書には本当に苦しめられた記憶があり、著者の批判には頷くところが多かった。

 そして第二部は、お待たせしました。「1日で国語の点数を20点上げる講座」の始まりです。こちらの目標は、「国語のルール」を知ることです。ゲームに勝つには、ルールを知らなければ始まらない。他の教科では、そのルールを授業で教えてくれます。でも、国語だけはそれをせず、いきなり勝負が始まる。これでは生徒の側に勝ち目はない。

 国語がルールを明示化しない理由は、上述のように、国語の目的が道徳教育にあるからです。戦後、国家は戦前の修身のように、表立って道徳教育を行うことができなくなりました。もちろん「道徳」という科目はあるのだけど、受験科目に入っていないので、子供が真面目に年寄り臭い説教を聞くわけがない。これは、本当はとっても健全なことなのです。学校は基本的に技術を教える場所であって、人間修養の場所ではないのだから、学校が生徒の心や倫理にまで介入する必要も権利もない。でも、なぜか日本の教育はその事態に我慢が出来ず、こっそり国語の中に道徳教育を忍び込ませている。まあ、隠微なファシズムです。

 そうすると、結果がどうなるかと言うと、国語の問題は、ある種の決められた「型」の答えを子供に強要するようになるのです。国語は「自然」が大好き。間違っても「人間には自然を破壊し尽くす権利がある」が結論の論説文は出ない。必ず「自然に帰れ」というメッセージを伝えるテキストが選ばれる(でもその「自然」は、えてして一昔前のテクノロジーでしかない)。子供の成長物語が出題されるときは、親と同じ人間になることが成長と同義として考えられている。そうそう、国語は二元論も大好きです。「心/体」、「社会/個人」、「都市/田舎」・・・・・・こういう二元論は、大人の思考法の基礎であるため、みっちり子供に教え込んでおく必要があります。

 決められたゴールがあるため、国語では、どうしても出題されるテーマも限定的で少なくなります(だからパターン化が有効な対抗手段になる)。「人権を侵害すると気分がいい」とか「物を盗むのは素晴らしい」などというテーマの文章が出題されることはありえない。国語と文学の間には深い溝がある。サドジュネも、国語界からは永遠にお呼びがかかることはありません。

 受験国語のテキストを分析するときに著者が武器にするのは、現代思想構造主義的な手法です。難しく聞こえるかもしれませんが、基本的なところはとっても簡単。本文にも名前が何度か出てくるロラン・バルトの『物語の構造分析』は、たぶん高校生でも読めます。テキストの骨組みだけを取り出して抽象化・類型化するために有効な方法論で、あとがきで著者も指摘するように、作者や社会的背景の情報がほとんど与えられない受験国語にはうってつけなのです(バルトの有名な批評のタイトルはその名も「作者の死」です)。このいささか(というか相当に)シニカルな分析によって、本書は、受験参考書としても優れているだけでなく、批評としても抜きん出た水準を達成しています。ここで言う批評とは、テクストから「無意識の欲望」を炙り出す、意地の悪い行いのことを指します。

 でも、著者は、ただ受験問題を批判的に読み解くだけではありません。この分析を通して、国語=道徳教育という負の側面だけでなく、受験国語がその学校の哲学の表れにもなっているという、正の側面も、私たちはまた見出すことになります(ただし私立の場合に限る)。

・・・・・・私立中学の入試問題は、その学校のメッセージだということがよく見えてくる。私立の学校は、何らかの哲学を持っている。だが、その哲学に合う子供だけが受験するとは限らない。そこで、真剣勝負の場で子供と対話を交わそうとするのである。それが入試だ。
 だから、入試問題と相性が合わないということは、その学校の哲学と相性が合わないのだと考えていい。それが世に言われる「入試の傾向」というものだ。こう考えれば、批判されるべきは、入試問題の偏向であるよりも、哲学のない入試問題であり、学校の哲学を表現していない入試問題であり、受験生との対話を拒んでいる入試問題だということになる。(pp.124-25)

 全ての学校が偏差値という一つの物差しの上に一直線に並んでいるのではない ―― よく言われる、しかしいささか欺瞞的なこの台詞も、このように明確な根拠をもって語られるならば、心安く受け入れられるというもの。ついつい偏差値や進学率などの分かりやすい数値に頼ろうとしてしまうのは人の性ではあるけれど、まずは本書を読んでアタマを冷やすとしましょう。

 さて、ではそろそろ結論。本書を読んで、国語の成績はあがるか?

 あがる、と請け負いましょう。もしあがらなかったなら、それは既に君が十分に国語のルールを熟知して、出題者を出し抜くことに成功していたか、無意識のうちにルールを内面化して「大人」になっていたか、どちらかです。どちらにしても、その場合、君はもう子供ではなかった、ということです。喜ぶべきことかどうかは、私には答えられないけど。

(付記:ちなみに著者は大学受験用のテキストも書いています。大学受験を控えている君はこちらをどうぞ)