下流フェミニズム宣言:小倉千加子『結婚の条件』

 フェミニズムが女性が自立することを説き、自由を求めることを支援するイデオロギーだ、ということは、今では皆さん(頭では)ご存知でしょう。でも、そのフェミニズムにも上流と下流があるということは、あまりおおっぴらには語られません。具体的に名指しするなら、上野千鶴子は上流フェミニストです。彼女の語りかける読者は、高い学歴とキャリア(教員、医者、弁護士、官僚 etc.)を持つお金持ちで美人で健康な女性たちで、そういう人々に「もっと自由に、もっとわがままに生きろ」とけしかけます。彼女の近著『おひとりさまの老後』でも、おひとりさまを楽しむためには「健康・お金・時間」の三つの要素が重要である、とはっきり巻頭で宣言している。この本は、その三要素を満たせた一握りの特権階層の人々が、より楽しく気ままに生きるためのガイドブックです。

 でも、落ち着いて考えてみれば、最初からその三要素を満たせるような人は、放っておいても幸せに生きていくのです。別にわざわざ面倒見てあげる必要はない。本当にフェミニズムが救うべき人々は、もっと他にいる。それは、「就職が無理だという現実があるから、在学中に自分の希望を現実にあわせて削り落とし、卒業したら『フリーターになりたい』という」女子短大生であり、結婚相手に求める理想が高すぎて、ずるずると結婚を後送りにして「健康・お金・時間」に加え配偶者すら持たないまま老後を迎える運命にある女性/男性です。同じ「おひとりさま」でも、上野の描くそれとはえらい違いだ。

 だから、「高階層にいるフェミニストが、すべての女に『結婚しても働きつづけよ』と叱咤激励する資格は何もない」という著者の上流フェミニズム批判は、100%正しいし、夫に労働させ自らは優雅な生活を送る勝ち組な結婚をした女性たち(『VERY』および『STORY』の読者に代表される新・専業主婦)に向ける冷たい視線も、当然のものです。

 私は、これも十年ほど前に、東京都台東区主催の女性問題のシンポジウムで、一緒にシンポジストをしていた女性弁護士と意見が対立したことがある。その女性弁護士は、聴衆の女性に向かって、「子供ができても会社を辞めず、育児休業をとって、職場に復帰するんですよ」とハッパをかけていた。「女性が自ら職場を去るから、女性の地位は向上しないんです」とも、彼女は言っていた。だからやむなく、私は言ったのだ。「職場に復帰したとき、自分の机がなくなっている人の方が多いので、弁護士の先生と自分を一緒にしてはいけませんよ」。聴衆は、ドッと笑った。弁護士の先生は、怒りで顔を真っ赤にして、私を睨みつけた。
 女性の高級官僚といい、弁護士といい、学者といい、自分が『経済特区』にいるということに、なぜ気がつかないのであろうか。(pp.123-124)

 でも彼女は、上流と下流、二つの陣営の間で板ばさみの苦しい立場にあるようにも見える。それは、むかし、上野と組んで上流フェミニズムの宣伝搭をしていた過去があるからでもあるし、本書と同じ2003年に出た上野との対談『ザ・フェミニズム』で、「結婚制度を内部から崩壊させてしまえるから」新・専業主婦とは結託できる、と酷いことを言っているからでもある。こういうのを日本語で「二枚舌」と言うのではないの? 多分、歯切れが悪くまとまりにも欠ける本書が彼女の本音に近く、良心の告白なのだと、私は思いたい。

 さて、前置きが長くなりました。本書は、書名のとおり「結婚」という現象(特に晩婚化)について論じたエッセイ集です。本書が提唱した3Cという言葉を聞いたことのある人もいるかもしれません。『負け犬の遠吠え』みたいなものかな、と思うかもしれませんが、小倉の態度は「負け犬でいこう」のような単純なものではありません。それは、一つには彼女が「恋愛という言葉を信じない」醒めたリアリストだからであり、女子短大の先生として、学生たちの実態 ―― ほとんどの女性は、酒井順子にも上野千鶴子にもなれない ―― をよく観察してきたからです。

 小倉はまず、結婚をビジネス、つまり経済活動として捉えます(これも問題のある見方なのだけど、その是非は今は問わない)。すると、結婚の目的は、自己の利益を最大化することになります。この認識は、特別なものではなく、多くの女性が意識するしないにかかわらず持っています。そして実は、男性側の認識とも一致する。かくして、結婚は一個の経済取引の契約として見られるようになります。

結婚とは、女性と男性が持つ資源の交換であり、自分の資源を棚に上げて、相手にばかり要求水準を高くしても、永遠に「適当な相手」は見つからない。自分の資源価値(市場価格)を、直視することは苦しい。大学生を対象にアンケートを取ると、女性が男性に求める最大の条件は「経済力」であり、男性が、容易には口にしないが本音のところで固執しているのは「美人」であることである。結婚とは「カネ」と「カオ」の交換であり、女性は自分の「カオ」を棚に上げて「カネ」を求め、男性は自分の「カネ」を棚に上げて「カオ」を求めている。(p.32)

 しかし、結婚が普通のビジネス活動と異なる点が一つあります。ビジネスにおいて、「金を儲けたい」という自らの欲望を語ることは、禁止されていませんし、みんな堂々とやっている。しかし、結婚において女性がこれをやることはタブーとされるのです。

無私無欲な部分を印象づけないと女性のジェンダーは評価されないから、打算はなんとしても隠しておかねばならない。そこで状況はややこしくなってくる。モノ欲しそうにしないで、すべては「偶然の出会い」によって起こったようにしなければならない。合コンは友人に誘われて初めて来ましたとか・・・・・・(p.31)

 男性はよく、こういう女性の陰険なやり口を「姑息」だとか「男を騙している」と言って非難します。だけど、女性がそのように振舞わざるをえない状況を作ったのは、男性社会からの抑圧だったことには気付かない。女性が最初から自らの欲望を口にできる立場であったなら、事態はもっと明快だったのに。

 ついでに言うと、結婚市場で女性に禁じられている振る舞いがもう一つあります。それは、動物性を見せることです。女性だって動物。汗もかけば大小便の排泄もする。ゲロも吐けば下痢もする。オナラもするし、体毛だって生えている。体臭だってあります。でも、女性は成長とともに、そういう生物が生まれながらに持っている動物性を隠し、削除することが社会から(男から)求められます。

恋愛初期には、デート中、トイレに行くのに席を立つのも至難の業である。・・・・・・女性は男性社会では、一般的に力関係において劣位におかれているため、最初から強い恥の感覚を内面化し、男性の前で恥をかくことを恐れている。男性は、女性に動物性を排除した「聖なる者」でいよという要求を出している。・・・・・・女性はそれに応えなければ、愛というゴールへの第一関門でふるい落とされる。(p.158)

 これもなんでなのか、その理由を考え始めると人類の深い闇に踏み込むことになるのですが、とにかく、現実としてそうなっているのは間違いない。

 余談なのですけど、アニメなど二次元の女性が好きな男性が存在する理由も、この「動物性/聖性」という2項対立で読み解けます。二次元の女性は、汗もかかないし体臭もないし年もとらない。動物性を全て捨象した理想的な偶像です。ロボットの女性をヒロインに据えたアニメが多いのも、同じ理由によるものでしょう。

 さて、男性のふっかける無理難題を見事クリアして結婚までこぎつけたとしても、女性はそれだけで安心できるわけではありません。市場原理は結婚した後にも有効に作用する。「このビジネスには陥穽がある」のです。

いくら妻が真面目に自分の義務を遂行しようが、妻の女性としての資源は年々衰えていく。・・・・・・
 男の資源がカネであり、女の資源がカオであるなら、資源のバランスが結婚年齢とともに崩れるのは必至であり、女の側が必ず不利になる。男女は決して平等ではない。(p.108)

 篠田節子直木賞受賞作『女たちのジハード』には、夫との離婚に備えて、自活の手段を作るため夜中にひとり、翻訳の勉強に励む中年の専業主婦が登場します。そして彼女は、実際に夫から離婚を突きつけられた後、一個の社会人として仕事をしながらシングル・ライフを営むようになる。脇役ではあったけど、そのプロセスをことさら悲しんだり嘆いたりせず、淡々と ―― ビジネスのように ―― 遂行する姿が、印象に残っています。

 現代の結婚は、このような緊張関係を常に孕んでいます。でもそれは、結婚を等価交換と契約というビジネスのスキームで捉えたことの代償であり、著者たちフェミニストが宣布してきたイデオロギーが行き渡った結果です。長い目で見て、やらずぶったくりはできない、というのは、ビジネスの世界でほとんど唯一普遍的に妥当する法則。いいとこどりなんて出来ない。明敏なる小倉千加子は、そのことに気付いている。

 誰かが本当のことを教えてやらねばならない、と著者は言う。そのとおりです。でも、本当のことを教えれば、女性・男性問わず学生からは嫌われる。ちょうど、屠殺場に連れて行かれるまるまる太った豚たちに、「あなた方はもうすぐ殺されてしまう。早くここから逃げて」と叫ぶ行いに似ている。しかも、上野たち上流フェミニスト ―― かつての同志 ―― をも敵に回さねばならない。この損な役回りを「しゃあないやんか」と呟きながら引き受けることにした著者を、本書を読んだときから、私は少しだけ応援することにした。