新入生のための宗教ガイド:島田裕巳『平成宗教20年史』

 ほとんどの人が無神論(というか無宗教)の日本人にとって、ナマの宗教(特に新宗教)に初めて向き合う経験をする場所は、大学のキャンパスでしょう。地方から出てきたばかりで頼れる知人もなく不安でいっぱいの新入生は、宗教の側から見ても格好の勧誘標的です。

 私個人のことを振り返ってみても、仲の良い高校の同級生にエホバの証人の子弟がいて、その子が体育の授業で剣道や柔道に参加することを拒否するのを見て、ああそういう教義の宗教があるのか、と初めて知りましたが、特段突っ込んだ議論をすることはなかったので、宗教についての本格的な関わりとは言えなかった。やはり、原理研幸福の科学という団体をじかに見たのは、大学に入ってからでした。

 免疫のない子供が変な宗教に引っかかってしまう、というのは昔から親や学校の悩みでしたが、信教の自由に反しない以上、何を信じようと個人の問題です。それに、宗教について勉強しようと思っても、書籍を選ぶのがなかなか難しい。宗教と距離のある人間が書いたものは、無意味に攻撃的だったり偏見に基づいていたりするし、かといって内部にどっぷり浸かった人間の書くものは、それ以上に信用できない。両極端で、なかなか良い啓蒙書が生まれにくい土壌です。

 そんなところへ、是非この春入学を迎える新入生諸君に読んでいただきたい本が出ました。別に学生を対象に絞った本ではないので、社会人が読んでも有用なガイドブックですが、私としては是非、新一年生にお奨めしたい。その理由は、著者がまさに「宗教との距離の取り方」を間違えて、過去に手痛い失敗を犯した人物だからです。

 島田裕巳 ―― この名前は、ある世代以上の人々にとっては、オウム真理教の名前と分かちがたく記憶されています。地下鉄サリン事件当時、彼はオウム擁護の姿勢をとったと批判を受けて、勤務先の日本女子大を辞職するまでに追い込まれました。報道の多くは「麻原からホーリーネームを授けられている」とか「学生をオウムに勧誘している」とか事実無根の中傷で、後に裁判で勝訴して名誉を回復します。

 著者は、基本的に誠実で努めて客観的な視点を確保しようとした、真面目な学者でした。それでも、やはり若さゆえのワキの甘さがあったことは否定できません。オウムがロシアに進出するとき、著者は上祐史浩から同行を求められるほどに教団に接近していました。同じ研究室の先輩で、はるかにオウムに深く関わりながらうまくバッシングをかわして逃げおおせた中沢新一の世渡りの巧みさとは対照的です(腹の虫のおさまらない著者は、後に『中沢新一批判』という本を書くことになる)。

 失職後は生活も不安定になり、精神的にも苦しい不遇の時期を過ごしますが、著者はその経験を無駄にしなかった。最近は冷静な筆致の優れた宗教啓蒙書を次々に世に送り出し、完全復活を印象づけています。

 本書は、『創価学会』『日本の10大新宗教』に続く新宗教についての第3作ですが、順番としてはむしろ本書を最初を読んで概略をつかみ、個々の宗教に興味が湧いたら前2作を読む、という流れの方がスムーズだと思います。あるいは、著者自身がヤマギシ会での生活を元に記した自伝的な入門書『私の宗教入門』を読んでみるのもいいでしょう。

 本書では、昭和63年(1988)から平成20年(2008)までの新宗教にまつわる事件などを時系列順に並べ、当時の風俗や社会背景と絡めて解説を行います。統一教会合同結婚式『悪魔の詩』翻訳者殺人事件、散骨の合法化、サイババブームにライフスペースと、世間を驚かせた事件はほぼ取り上げられるのですが、やはり軸となるのは、創価学会オウム真理教という、新旧を代表する二つの新宗教の盛衰です。

 片や高度成長期の時代、地方から都会へ移住し、地縁血縁のバックボーンを失った中間層に村社会の代わりとなる受け皿の共同体を提供した創価学会に対し、オウムはオイルショック以後の不況の時代に、終末論を掲げてそれまでの信徒層とは異なる若いエリート層を取り込み成長しました。教義という点で見ても、この二つの宗教は同日に論じるにはあまりに違いが大きい。新宗教を全て「カルト」の一言で片付けて思考停止するのは危険だし、何の問題解決にもならない、という著者の警告は重要です。

 そもそも日蓮正宗の在家の檀家(講)として出発した創価学会には、意外かもしれませんが、僧侶がいませんでした。葬式などの宗教行事では正宗から僧侶を招いて行っており、学会は主にお布施を集める収益機関という扱いだった。学会はこの立場に不満をもって、やがて第3代会長の池田大作のときに正宗からの独立を果たすのですが、これ以降、学会は戒名も授けず僧侶も呼ばない「友人葬」を実施するようになります。以後、宗教色が薄まって、利益団体としての性格が強くなっていきます。公明党が悲願の与党入りを果たしてからは、ことにその傾向が加速されました。

 一方のオウムは、実はまだその全貌が明らかにされたとは言いがたい。特に、なぜ毒ガスを使った大量殺人などというテロリズムに傾斜していったのか、という点については、ほとんど謎のままです。「最初から全員狂っていたんだ」という説明にもならない説明は受け入れられません。初期のオウムも、坂本弁護士一家殺害事件や、オウムから抜けようとした信徒を内部でリンチしたりという暴力性を見せていたけど、明らかにサリン事件は、そうした「合理的な説明のつく」殺人とは一線を画している。

 一つ重要な転機と目されるのは、ロシア進出です。おそらくサリン製造の知識などはロシアから仕入れたものですが、この時期のオウムは世間からの注目が低くなっており、また国外であるため調査が難しく、ロシアで具体的にどのような活動をしていたかが分からないのです(村井秀夫のような「知りすぎた男」が殺されてしまった、というのも大きい)。

 でも、著者が危惧する最大の理由は、そういうことではない。私たちがオウムを早く忘れたがっていることが、一番恐ろしい。もう蓋をして、なかったことにしたい。何も起きなかったことにしたいという誘惑は、陰惨な事件であればあるほど、抗し難いものです。サリン事件後、しばらくは宗教やオカルトについて自粛ムードがありましたが、今や堂々と「スピリチュアル・ブーム」が復活し、テレビには再び霊能者タレントが現れるようになりました。新しい新宗教(新新宗教)も次々と現れては社会と摩擦を繰り返しています。状況は、オウム以前と何も変わっていない。

 あるいは10年前なら、それでもよかったのかもしれない。でも、9.11 以後の世界では、もうそうはいかない。
 21世紀が、宗教テロリズムが世界史の表舞台に再び登場する時代になるなんて、20世紀の終わりには信じられないことでした。宗教はその役目を終え、ゆっくりと歴史から退場していくはずだった。でもどうやら亡霊はまだまだ立ち去らない。私たちも、宗教という難物に再び取り組まなければならない時が来たのです。そのための第一歩として、本書は優れた入門書です。

 ま、そういう大上段にかまえた話は、とりあえず意識しなくてもかまいません。でも、なぜ統一教会の下部組織である原理研共産党系の民青が小競り合いを繰り返しているのか、ということぐらいは理解してからキャンパスへ赴くようにしましょう。でないと足元救われてもおじさんは知らないよ。