戸惑いの倫理学

 昨日は風邪気味で、仕事から帰ってきてからずっと倒れていたのですが、村上春樹イスラエルでガザ攻撃を批判する演説をしたというニュースを聞いたときは、「言ったな!」と快哉を叫びました。「卵と壁」という比喩が曖昧だとか及び腰だという批判もあるようですが、でもそういう人たちに聞きたい。イスラエル国内で、首相以下要人たちを前にして、及び腰でもいいからあそこまで言うことのできた日本人が、これまで他にいたのか、と。

 私はもう10年も前に村上春樹の読者をやめてしまったので、その文学作品について云々する資格はないけど、それでも今回の演説は素晴らしかったと思う。ここ数年、とるとると言われて毎回手が届かないノーベル賞も、今度のリーチは期待できるんじゃないの(あるいは本人にも布石の意図があったかもしれないけど、それがどうした)。

 私が今回さすがだと思ったのは、彼がイスラエル側から「困惑」という反応を引き出したことでした。

 これまでイスラエルという国は、怒るか悲しむか、どちらにせよ常に「マジ」でした。一神教信者のお手本というべきその頑なさで、欧米がどれだけ陰に陽に干渉しようと自らの正しさを確信し、ほとんど基本姿勢を変えてこなかった。その国民にこういう感情のぶれをもたらせる人物は、それほど多くない。

 かつてまともだった頃の内田樹が言ったように、暴力の連鎖に終止符を打てるものがあるとすれば、それは「絶対的に正しい」言説や教義ではありません。それは暴力の拡大再生産にしか寄与しないことを、私たちは経験によって嫌というほど学びました。「え、参ったなあ。どうしよう・・・」とか「あれ、ちょっと待てよ。俺っていま・・・」とかふと足を止めて自らを振り返る「ためらい」という心的状態だけが、振り上げた拳をとどめさせる。

 本人がそこまで計算していたかどうか、私は知りません。でも、村上春樹は還暦を迎えてもやっぱりクールだった。そのことが確認できて、頭痛でうんうん唸りながら少し幸せになった。