負け組みのリアリズム:西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』

 私が西原理恵子の本を最初に読んだのは、高校生のとき。『まあじゃんほうろうき』という連載物のルポ(?)でした。ある意味、非常に鮮烈な印象を受けたのですが、それは別にこの本がすばらしくて心うたれたとか、そういうものではなく、むしろほとんど誉めるところのない本でした。私がその本から当時まったく無名の著者について得た情報は、以下のとおり。

  • 絵がヘタ(イラストレータなのに)。
  • 麻雀がヘタ。最初は正真正銘の素人だったが、最後でもやっぱり素人だった。
  • ギャグセンスがない。ペコちゃんを二人並べて「リャンペーコー」とか、と読む側が思わず「くはっ」と膝をついてしまう強烈なパンチを持っていた(麻雀が分からない人ごめんなさい)。


 総じて言うとやぶれかぶれの本で、よくこれに阿佐田哲也の名作と同音のタイトルつけるよな、とそのクソ度胸には感心しました。

 その後、『ぼくんち』を読み、貧困をベタベタした描き方をしないストーリーテラーとしての才能に驚き、『できるかな』で人間としてのタガの外れっぷりに感嘆し、すっかり彼女を見る眼も変わり、問題の『まあじゃんほうろうき』については「ま、若くて仕事も選べなかったんだよね」と納得することにしたのでした。

 しかし、です。本書を読んだことで、私はその考えを改めざるをえなくなりました。そうか、そうだったのか。西原は、彼女なりに最初からずっと、ぶれることなく一つの戦略に基づいてものを書いて(描いて)きたのだ。彼女の戦略は ―― それを戦略と呼ぶならばだけど ――「ベクトルの方向はどちらを向いてもよい。問題はその量である」というシンプルなものです。矢印の向きは、プラスとマイナス、どちらを向いていようといい。大事なのは矢印の長さ、絶対値なのだ、と。

 本書は、著者が育った高知のスラムのような町の回想から始まります。そこは閉塞感に溢れた文字通り「どんづまり」の町で、「年齢が上がる」とは「カウントダウンがはじまる」ことを意味する生活でした。神社に火をつけていた男の子は成長すると車の改造に命をかけ、女の子は友達の中絶費用のカンパを回す。大人になると日雇いの仕事に就いて、女の子は18歳で結婚する。あとは変なパーマをかけて日中がなりちらすオバサンへの道をひた歩むだけです(『ぼくんち』の読者なら、大体あのままの世界と思っていい)。

 そんな世界から抜け出したいと、誰もが思いながら、しかしそれが出来ないように構造化されている。

だけど、「自分は親と同じような人生だけはイヤだ」って思っても、どうすればいいのかわからない。・・・・・・
わたしはいつかこの町を出るんだろうか。出られるんだろうか。
勉強もろくにできない自分が、自分の力でこの町を出ることは考えられなかった。だけどまわりを見ても、ダメな先輩や大人の見本市で、「希望」がなかった。(pp.39-42)

 今の日本では、移動の自由も職業の自由も保証されている。生まれた町がイヤなら引っ越せばいいし、親と同じような人生がイヤなら違う職業につけばいい。そう考えるのは、残念ながら半分しか正しくない。事実の水準においてはそうであっても、「希望」の持てない人間には、そうしたポジティブな選択肢が見えないからです。だから子供にとってロールモデルとなる大人がいないという状況は、致命的にその精神的成長を妨げます。貧困がたやすく遺伝するのは、そのためです。

 著者はそれでも、アリ地獄を這い出るように貧困からの脱出を試みます。「ここではないどこか」へ行くため、ただ一つ、「絵」という武器を頼りに。私が学生の頃であったのは、まさにその格闘真っ最中の彼女だったのです。でも、子供にすら見抜けたぐらい、彼女の武器はひ弱で、戦い方は拙かった。勝ち目は、ほとんどないように見えた。

 しかしそんなことは、本人が一番よく承知していたのです。東京へ出てきて美大に入り、自分に画才がないことは、早々に見切っていた。彼女はそれを見切ることのできるリアリズムを持っていたし、より重要なことに、そこで「絵の練習をして上達し、どこか適当な就職口を探す」という正攻法を採用しなかった。彼女は、マイナスを武器にする決意をしたのです。恐ろしい女だ。

マイナスを味方につけなさい。・・・・・・たまたま配られた札がぜんぶマイナスだったら、それをいつまでも嘆いてたってしょうがないよね。ひっくり返してプラスにすることを考えなくっちゃ。(p.112)

 プラスの札を持った人間が絶対にやらないゲリラ戦が彼女の活路となりました。売り込みをかける出版社はエロ雑誌メインのいかがわしいところ、レストランガイドの仕事では「まずい!」を連発して店と編集者を蒼ざめさせ、ゴーストライターを雇って脱税に挑戦・・・・・・いずれもきちんとしたきちんとした教育を受けた正規軍にはできないことです(し、やる必要もない)。ついた仇名は「狂犬」。

 もしあなたが、今の自分の人生にどうしようもない閉塞感を感じ、もうここから一歩も動けないと思っているのなら、今すぐ本書を読むといいでしょう。自分の人生の「カウントダウン」の音が聞こえる少年少女は、特に読んでおくべきです。私は、中学校の副読本に指定してもいいと思う。

 誰だって、できることならプラスの札がたくさん欲しいと願う。でも全員に良い手は来ないのが資本主義社会のならい。自分に配られた札がどのような種類であり、それを組み合わせることでどのような戦い方が可能なのか、それを見極める時期は、早ければ早いほどいい。特にマイナスの札ばかり掴まされた人間は、運良く好手を掴んだ人間よりも早く、果敢に行動を起こさなければならない。ぐずぐずしている暇は無いのです。負け組みは、勝ち組よりずっとリアリストでなければならない。

 マイナスの札を引っ繰り返す方法として、著者はマイナスを突き詰めるという極端な方法を得意とします。ある一定量までベクトルが伸びた瞬間に質的変換が起こるという、かつてマルクスが見抜いた座標の力学を、著者が最初から知っていたのかどうかは知りません。まあ結果オーライだったのでしょう。でも、そのおかげでここに一つ、待ち望んでいたロールモデルが用意されました。チャンタ国士無双しか狙わない、およそ異端の戦略ですが、でもそれしかできない人間もたまにいる。

 「最下位の人間には、最下位なりの戦い方があるんだっていうの!」

 負け組みの、負け組みによる、負け組みのためのリアリズム講座。諸君、いますぐ本屋へ走れ。