アトラスの亡霊

 不況真っ只中のアメリカで、一冊の本が売上を伸ばしているそうです。オバマ大統領の演説集ではありません(それも売れてはいるが)。50年以上も前に刊行された、一部では古典と呼ばれている本です。アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』。知っている人は、この名前を聞いただけでギクっとして身構えてしまう。この嫌な感じは、ある意味でヒトラーの『わが闘争』が売れていると聞いたときのそれに似ているかもしれません。

 この本は、一応小説という形はとっているのですが、小説として面白いかというと、平たく言ってお奨めできません。思想性が強くてエンタメ性には欠けるし、その思想も極端なリバタリアニズムです(詳しくはこちらを参照)。ほとんどの日本人にとっては、ページをめくるのが苦行以外のものではないし、事実、邦訳は売れていません。

 でも本家アメリカでは、本書はずーっと長いあいだ、大衆的な人気を持っています。まともな批評家や学者からは嫌われているけど、この本は普通のアメリカ人の心の奥深くにある火種を燃やす力を持っているのです。日本でいえば、春樹と龍のダブル村上、あるいはもう少し近い年代で探せば司馬遼太郎のような国民的作家に相当する。私は、印象として最も近い日本の小説をあげろと言われたら、村上龍『愛と幻想のファシズム』だと思う。どちらも極端な政治思想に貫かれていて、やたら大部で登場人物はすぐに長々と演説をぶち、そして物語としてほとんど破綻している(でもそこが逆に蠱惑的な魅力を放っている)。

 「それは言いすぎじゃないの。アメリカでもカルト扱いでしょ」という意見もあるかもしれません。私も、最近までそう思っていました。でも標題のリンク先の記事を読んで認識が変わりました。どうもアメリカのディープさを軽視していたかもしれない。

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 英米では少し前から、民間企業や銀行に対する公的資金注入や救済措置が次々と実現されています。もうすぐ銀行の国有化もあるかもしれない。「それがどうかしたの? いまはそれしか方法はないんじゃないの。仕方ないじゃない。日本だって10年前はそれでしのいだんだ」 ―― と考えるのは、お上に従うのが好きな日本人の考え方。アメリカ人は、自分たちの税金がそんな連中のために使われることに心底我慢ができないのです。それが証拠に、政府が介入を行うというニュースが公表されるタイミングに明らかに連動して、ランドの本の売れ行きが跳ね上がる(図参照)。



 いや怖い。従来、ランドの愛好者は非常に限られたサークルを形成していました。記事でも「ランドのファンはリバタリアンと大学生が主だった」といっていますが、これは「夢想家と世間知らず」の暗喩です。でも、今回の不況で支持層を一気に拡大してしまった。掲示板や SNS でも話題になっているそうな。左翼よりで大きな政府を志向するオバマ政権にとっては、このアトラスの亡霊は、もしかして最大のライバルになるかもしれない。全国民の心の中の炎は、ブッシュよりもマケインよりも手ごわい。