損得勘定が地球を救う:ビョルン・ロンボルグ『地球と一緒に頭も冷やせ!』

 ロンボルグの名前は、もういまさら私なんかが宣伝する必要はないでしょうが、それでもこの本はやっぱり紹介しておきたい。地球温暖化を含む環境問題について何かを考え、論じるときの、一番基本的な「スタンス」を教えてくれる本だからです(そして実は、そのスタンスは、環境問題に限らず、人間の営為全般についてもあてはまる普遍的なものです)。事実やそれをもとにした予測なども、もちろんまとめられてはいるけど、そうした内容は、本書にとって二次的な意味しか持たない。

 著者の本は、「地球温暖化懐疑論(or 否定論)」に与する人々にとっては一種の聖典です。でも誤解してはいけないのは、著者は別に地球温暖化が起きていることには、懐疑的でもないし、否定もしていない、ということです。ロンボルグは「地球温暖化は起きている、しかも人間の手によって」とはっきり認めています。本書でも、冒頭でまずそれを断言している。

地球温暖化は本当だし、人為的なものだ。(p.19)

つまり、今世紀中で大気中のCO2が大幅に増え、地球が温暖化する可能性が高いわけだ。(p.25)

 懐疑論者の中には、「地球が温暖化している」という命題そのものを疑う人もいます(中には「逆に寒冷化しているのではないか」という極端な人までいる)。しかし、ロンボルグはこの点では全然、反主流派でも過激派でもない。念押ししておくと、ロンボルグは、人間の手による、温暖化を、認めている。

 じゃあ彼はいったい何に懐疑的なのか? それは以下の三点についてです。

  • いまやっている温暖化対策に効果があるのか。
  • 温暖化対策よりもっと大事な課題はないのか。
  • そもそも温暖化は本当に問題なのか。

 彼がこうした懐疑を持つ根拠は、自然科学より経済学の側にあります。つまり、費用対効果機会損失です。

 温暖化対策として、CO2削減に取り組む国は、日本をはじめいくつかあります。でもそれの効果をはかるには、得られた効果からかかったコスト(金・人手・時間・モノ)を差し引く必要があります。もちろん、CO2を削減すれば、きっと温暖化抑止の効果は出るでしょう。でもそれが焼け石に水の可能性だってある。もしそうなら、対策をするにしても、もっと別の方法を講じないと意味がありません。

・・・・・・いますぐものすごいお金をかけて大規模なCO2削減をしても、影響は小さくてどうでもいいくらいのものだし、しかもそれが起こるのはずっと将来になる。気候変動への対処は一世紀にわたるプロセスで、何世代にも、幾大陸にも、各種の党派にもまたがる必要がある。だから手早い高価な解決策を考えるのはやめて、低コストで長期的な研究開発に専念すべきだ。(p.19)

 温暖化による被害そのものを考えるときも、同じように「差し引き」で計算しないと不正確です。ヨーロッパでは、熱波による死者の増加が心配されています。温暖化が進行すると、そこに悪影響が出る可能性はある(この点で、私が昨日言った「温暖化で死人は出ていない」という言葉は不正確な可能性がある。実際は出ているかもしれない)。でもマイナスの側面だけを見るのはフェアでない。温暖化によって、寒さによる死者の数が減ることをカウントしていないからです。他にも、今まで農地としてつかえなかった土地を利用できるようになり、農業の生産高が増える可能性もある。こうしたプラスの側面を抜きに一方的にマイナスだけ数え上げても無意味です。

 次に、仮に温暖化が重要な問題であるとして、それが一番の問題なのかどうか、という点。WHO の「2000年における各種リスク要因からくる死者数の算定」(p.69)において、ダントツのトップは血圧の700万人。それに続いてタバコ(500万人弱)、コレステロール、体重不足、危険な性行為・・・と続きます。気候変動はビリッケツの方で、15万人程度。このデータも概算ではありますが、しかし温暖化以外の要因ではるかに多くの人が死んでいることは明らかです。だから、タバコ制限、飢餓対策、コンドームの配布の方がずっと多くの人命を効果的に救える。しかも短期間に。こうした課題へリソースを振り分けずに、温暖化だけに集中する正当な理由があるのか? ロンボルグの第二の懐疑点は、ここです。

 それはもちろん、全部の問題を解決できるのが一番いいに決まってます。でも、それが現実的に不可能なら、課題の優先付けをせざるをえない。これは災害医療におけるトリアージと同じです。温暖化対策に 100 億円をつぎ込む決定をくだすことは、その 100 億円で救えた感染症患者の命を救わないことを意味します。これが割にあう差し引きかどうか、それが知りたい。

気候と HIV自由貿易マラリア、栄養失調とで優先順位をつけろと言われると、多くの人はそこから逃れようとして「全部やるべきだ」と主張する。これは魅力的な提案だ。太っ腹に見えるし、何もかも入っているように見えるし。でも、これはまちがってもいる。・・・・・・結局はどうあれ、いちばんよいことを最初にやるしかないのだ。一つの課題に時間をかけたら、別の課題にはあまり時間を費やせない。寄付金のお金がどれだけあっても、一位の課題にお金をかけたら、その分だけ他の課題にまわるお金は減る。(pp.78-80)

 なお、ロンボルグは、自分の考えが絶対に正しい、ということを言いません。自分は「あらゆる知識やあらゆる解決策を知っているとは主張できない」と冒頭で認めています。彼の根拠とするデータが間違っていることもあるでしょうし、知らない事実もあるでしょう。使っているモデルが現実離れしていることも議論の筋道がおかしいこともあるでしょう。

 そのときは、修正すればいいのです。そして、もっと正確な方法を使って分析し、解決策を探せばいい。それらは事実の水準に属することなのでずっとたやすい。本当に難しいのは、価値の水準における決定です。A よりも B を採るという判断において広い合意を得ることに、環境問題の難しさはある。それを合理的に遂行するための方法を提示してみせたのが、ロンボルグの仕事の本当に大事な点だと、私は思っています。

 でもここまで読んで感じた人もいるでしょうけど、彼の主張は、はっきりいって全く普通のことです。誰だって、仕事や勉強をするとき、最優先の課題から取り組むでしょう。そして、その努力によってどれぐらいの見返りが得られるか、という試算も前もってやりませんか? 見積もりもとらず仕事を始めるザルな会社は早晩つぶれます。地球だってそれはかわらない。