『Economist』:金持ちの首を獲れ

エジンバラでは銀行の窓に石が投げられ、フランスでは労働者が経営者を「誘拐」する。ワシントンでは90%の追徴課税が提案され、ロンドンでは、サミットに出席するG20の指導者の到着を暴動が出迎えました。政治と世界経済に対する社会の態度に、大きな変化が起きています。

昔から、大衆から攻撃の的になるのは、金持ちだけではありません。大不況の恐怖にかられた彼らは、政治家や中央銀行や移民にも怒りをぶつけています。しかし現在起こってる怒りの矛先は、新しい「悪の大富豪」に向けられています。今日の敵は、ルーズヴェルトが「悪徳資本家」を非難した100年前よりもずっと巨大でワールドワイドに展開しており、その内訳は、昔のようなトラストや鉄道の所有者ではなく、銀行家とファンド・マネージャーが多くを占めるようになっています。

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しかし、争点となる主題は変わっていません。それは、今も昔も格差の拡大です。1979年において、アメリカのトップ 0.1% の収入は、底辺の 90% の収入の合計より20倍多かった。2006年では、これが 77倍にまで広がっている。強欲な金持ちが正直な労働者から、パイの正当な分け前を騙し取っているという感覚も、それに歩調をあわせて強くなっている。

そういう詐欺の幾つかは、昔からあるものです。たとえばねずみ講や、賄賂をもらった政治家が特定の産業を優遇したり。もっとグレーな領域でいうなら、金持ちが現金を(ケイマン諸島のような)タックス・ヘイブンに隠したり、税法を自分たちに有利になるよう「改悪」したり。しかし、金持ちの行動が批判者を苛立たせるのは、その犯罪がシステム自身の一部をなしており、白昼堂々と行われていることです。

金持ちに対する大きな批判は二つあります。ひとつは、金持ちが新しい形の「不敗の資本主義」を作った、というもの。トレーダーやファンド・マネージャーは、他人の金を投機に回し、成功すれば巨額の報酬を受け取る。では失敗したら、巨額の損失を引き受けるか? とんでもない。彼らは自分では責任を取らない。穴埋めをするのは会社、クライアント、究極的には納税者です。政府の財政政策も、このリスクの非対称性を助長している。市場が危機に瀕すると、中央銀行はいつも金利を下げたり公的資金注入で彼らを助ける。AIG のように公的資金注入を受けながら、役員に巨額のボーナスや退職金を払う企業もある。「勝てば天国、負けてもチャラ」なのです。

このリスクの非対称性は、金融業者がハイリスクな投機へ手を出す強力なインセンティブとなります。失敗しても最後には税金でケツをもってくれるのだから、いくらでもハイリスクな冒険へ乗り出せるからです。だから、金融業者が合理的であればあるほど、ハイリスク・ハイリターンな投機をしようとする。

しかし、誤解のないように言っておくと、この「他人の褌で相撲を取る」システムは、一概に悪いものではありません。シリコンバレーでは、ベンチャー企業が失敗しても負債を負わなくていい楽観的な仕組みが、イノベーションを生む土壌になっています。ただ、IT 企業が倒産しても世界経済への影響は少ないが、金融機関が破綻すると大きな社会不安を招きます。ここが通常の民間企業と金融機関の違いです。だから、ポズナーも言うように、金融システム全体を守る仕事は、政府が行わなければならない。

合理的なビジネスマンは、倒産が自分の会社に課すコストほどには、経済全体へ及ぼすコストについては考えない(というか、考えられない)。そのため、合理的な銀行家は経済全体の観点から見て最適なリスクよりも、大きなリスクを取ろうとする。この利益最大化の論理は、はるか昔にアダム・スミスが解き明かしたものだ。ビジネスマンは自分のコストと利益は気にする。しかし経済の他の部分に及ぼすコストと利益は気にしない。彼は利他主義者ではないから。だから、金融システム全体を崩壊から守る責任は、政府にある。だが政府はこれまでその努めを果たしてこなかった。それが非常に深刻な結果を招いた。

二つ目の批判は、銀行家やファンド・マネージャーは何の役にもたっていない、というものです。マイクロソフトGoogle をたちあげた起業家たちは、彼らが生み出した価値への対価を受け取る資格がある。しかし、トレーダーやブローカーは、ただシステムの中でお金をぐるぐる回しているだけで、自分以外の誰にとっても利益を生み出していない。お金が速く回れば回るほど、金融部門は大きくなる。アメリカでは、ピーク時には国内企業の利益の 41% が金融業によるものでした。これは20年前の2倍です。金融が成長すると、銀行も大きくなる ―― 破綻するには大きすぎる規模にまで。結果、銀行がよろめくと、納税者がこれを支えてやらなければならない。これは資本主義の本来態からは程遠い。まるで金持ちのための社会主義です。

これら二つの批判はしばしば同時に行われますが、しかし、第一の批判に比べると、第二の批判はずっと脆弱で、正当性がない。金融業に本質的に不当なところはないからです。資本のコストが低ければ、産業へ投資し、イノベーションを促進することは簡単になるし、為替リスクから産業を守ることにも貢献する。起業家から銀行家を切り離すのは、両方を傷つける愚かな行いです。

経済全体という大きな問題を考えるときは、一時のテンションに身を任せると後で後悔します。玉突きのように全体へ波及していく効果まで見なければ意味がない。金持ちを殴るのは一時的には気分がいい。でもそれは最終的には自分の首を絞める結果につながるのです。

注:文中の風刺画は、もちろんドラクロワ民衆を導く自由の女神。国王の首を獲るべく決起した民衆を女神が鼓舞しています。一方、この挿絵の女神が掲げるプラカードは「金持ちの首を獲れ(get the rich)」。

またポズナーの発言は、池田信夫氏のブログ「資本主義の失敗」から教えていただきました。