演説が上手なのはそんなにいいことか

 『ザ・ホワイトハウス』の 1st シーズンを見終わりました。非常にクオリティが高い政治ドラマで、続きが気になる。NBC は本当にハイレベルです。

 エピソード 19「Let Bartlet Be Bartlet」(邦題「私は闘う」)の回では、感動してちょっと涙ぐんでしまった。政治の季節が終わった今の日本にはなかなかこういう理想に燃える政治家の肖像というのは見られません。もっともそれは裏を返すと、アメリカにはまだ政治家が闘うべき問題が多く残されている、ということかもしれない。「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ」というベルトルト・ブレヒトの言葉を思い出します。

 1st シーズンの大きな流れとしては、選挙のときは強硬派のリベラル(銃規制、中絶合法化、死刑制度廃止、政治資金規制、等々)だった大統領が、就任後はどんどん中道派になっていって、支持率の低下と政策上の挫折に苦労するというものでした。今の日本も半分そうですが、政権が少数与党だと、あらゆる政策で野党(この場合は共和党)の反対を受けるので、やりたい政策が全然通らない。

 おまけにホワイトハウスというのは、見かけの華やかさに比べて、実はあまり権力がない。法案の提出権もないし(拒否権はある)、予算案も出せない。人事権も弱く、閣僚や判事など連邦政府高官の任命も、上院の過半数の賛成がないとできない(条約の締結にいたっては、2/3の賛成を要する)。劇中でヒスパニック系のホセ・メンドーサ最高裁判事にするのにスタッフが非常な苦労をして、なんとか多数派工作を成功させたものの、広報部長のトビーが「投票が終わるまでは安心できない」と気を揉んでいたのはそのためです。

 従って、トビー、ジョシュ、サムといったスタッフの仕事は、「絶え間ない退却戦」の様相を呈しています。法的な権力を持たない人々が頼みの綱とするのは、国民の支持です。だから国民のハートをつかむための演説が、アメリカ大統領の重要な武器になります。バートレット大統領も演説の名手だし、現実にもオバマケネディリンカーンなど、歴代米大統領は節目節目で感動的な演説をものしている。これは「国民の支持」という錦の御旗を掲げないと議会が相手にしてくれない、という切羽詰った事情もあるのです。大統領以下スタッフも、支持率の数字が公表されるたびに一喜一憂している。

 よく日本の首相は米大統領に比べて演説が下手だ、という比較をされますが、それは日本の首相が政治家としての質が悪いというより、日本の場合、首相は閣僚の任命・罷免もできるし、法案も出せるし、議会は解散できるし、大きな権限をもっているので、国民にアピールする必要が薄いことも関係しています(その証拠に、与党の中でも「変人」で味方の少なかった小泉元首相は、例外的に米大統領に近い手法を使わざるをえなかった)。

 アメリカが行政の長にこれほど少ない実権しか与えていないのは、専制の出現を防止するための安全装置です。有能で高潔なリーダーがぐいぐいひっぱってくれることのメリットを捨てて、無能で邪悪な独裁者がもたらすデメリットを少しでも削ぎたい、という悲観的発想が、専制から独立を勝ち取って生まれたアメリカという国の政治制度の基本思想になっています。

 そういえば大統領は三選も法律で禁止されていたっけ(修正第22条)。徹底してますなあ。そろそろ世襲も禁止した方がいいかもしれない。そしたらイラク戦争もなかったかもしれない。