訓読みは難しい
6/9 にやっていた「松本人志のためになる話」が、面白いトピックを二つ取り上げていました。
ひとつは、漢字の訓読みに関するもので、「承る」を「うけたまわる」と読むのはかなり強引ではないか、「承」の一字に「うけたまわ」という 5 文字もの音を割り当てるのは、納得がいかない、という不満でした。プレゼンターはロッシーという人だったかな? 私は初めて見る芸人さんでしたが、なかなかいいポイントをついている。
漢字の訓読みというのは、クイズ番組でもよく難問コーナーで出てくるように、相当難しいものです。音読みには規則性があるので、形の似た漢字は同じ音で読みます。「証」も「鉦」も「ショウ」と読んで間違いない。でも、訓読みにすると、「証」は「あかし」、「鉦」は「かね」です。ぜんぜん違う音になる。とても一方から他方を推測できるものではありません。
このような訓読みの難しさは、もともと漢字が日本のものではないのを、無理やり日本語の中に組み込もうとしたことに起因しています。音読みはそのまま中国での読み方を真似して持ち込めばなんとかなったのですが、訓読みは、意味の似たやまとことばを強引に当てたからです。中国と日本の文化関係について第一人者の高島俊男も、こう言っています。
つぎに、漢字を、その意味によって直接日本語でよむことにした。たとえば「山」という字、これを音でサン(あるいはセン)とよんでいたのであるが、この字のさすものは日本語の「やま」に相当することはあきらかであるから、この「山」という漢字を直接「やま」とよむことにしたのである。
これは相当奇抜な所業であり、また一大飛躍であった。
いやまあみなさんは、「山」という字を「やま」とよむのはアタリマエと思っていらっしゃるから、それを奇抜とも飛躍ともお感じにならぬであろうが、しかしですよ、ここに mountain という英語がある。これはマウンテンとよんで山のことだとみなさん習っているだろうが、えいこ(ママ)の mountain を直接「やま」とよむことにしよう、dog を「いぬ」と、cat を「ねこ」とよむことにしよう、となったら、これは相当奇抜で飛躍的でしょ? そういう大胆な、見ようによってはずいぶん乱暴なことをやった。
(『漢字と日本人』p.75)
だからロッシーよ、君の感じた違和感は正当なものなのだったのだよ。訓読みは、強引で乱暴で奇抜なわれわれ先祖の遺産なのだ。難しい訓読みが読めなかったとしても、別に恥じることはない。そんなのただのトリビアみたいなもので、読めた読めないで頭の良し悪しが決まるものではないから。むしろ、誰もが疑わない(でも本当はおかしい)前提を疑ってみせた君の着眼点は、学問的に優れていると言っていいぐらいだ。さすがは言葉に敏感な芸人という職業を生業としているだけある。
名古屋大学の町田健には「そうやって読むものです」と一蹴されていたけど、これはマチケンの対応が杜撰だったと思う。この人も立派な言語学者だけど、もうちょっとロッシーに理解を示してあげてもよかったんじゃないかなあ。
もうひとつの面白かった話はまた次のエントリで。