殺したのがブスだったら…:小谷野敦『美人好きは罪悪か』

 いまの日本で公然と差別することが許されている領域は、学歴と年齢と容姿です。「公然と」の意味合いは、だいたい「テレビのバラエティ番組を見ていると出てくる」というのと同義です。クイズ番組では「高学歴」と「低学歴」でチームわけをするのは普通だし、年齢に関しては最近新語が多く作られてるし、容姿に関しても、ブス/ブサイクな芸人を笑い者にするのは、特段悪いこととは見なされていません。いや、真面目なうるさ方の中にはこういうのを見て不快な気持ちになる人もいるでしょうが、とりあえずまだ世間では認められている範囲、ということになっている。

 20世紀の間、世界的に差別問題のトップにくるテーマは常に人種でしたが、これは今ではまともな民主主義国家なら例外なく違法とされます。法律的な面だけでなく、道義的にも禁じられており、人種差別主義者(racist)の烙印を押されることは、欧米では社会的に抹殺されることを意味します。それに、日本ではあまり人種の違いを意識することは少ない。

 二番目の問題であった性差別についても、先月出た昭和シェル石油の訴訟判決からも明らかなように、もはや差別する側に勝ち目はない。ほかに日本固有の差別領域として、同和問題という巨大なのがありますが、これも建前上は差別が禁じられている。

 すると、差別可能な領域として残るのは、最初に掲げた三つだけということになります。最近、テレビでこの三つの領域での差別をよく見るようになったのは、他の領域で差別できなくなった分、はけ口が求められているからでしょう。出口を塞いだところで中にたまるものはたまるので、別の穴から出るようになる。

 ただ、このうち、学歴だけはやや扱いが微妙です。というのも、ある程度、学歴というのは個人の努力の結果であると認識されているので、その高低について論じることは、スポーツ選手の能力について論じるのと同じで、決して人格とか名誉の毀損にあたるものではない、という論理が通るからです。頭の良し悪しはかなりの程度遺伝で決まるという事実を差し引く必要はあるにせよ、この論理にも半面の正しさがある。だから、これはごく個人的な感想なのですが、学歴で区分されることを「差別」と感じる人は、比較的少ないのではないでしょうか。

 もう一つの年齢に関しては、ご存知の方もおられるでしょうが、もう穴は塞がりつつあります。先進国では既に年齢によって差別するのは倫理的に悪と見なされるようになってきたからです。Ageismといって、Racism と同様、アメリカでは既に定着しつつある概念です。老人を「ババア」とか「ジジイ」と呼ぶ単純なのもそうですが、たとえば、求人広告などでよく雇用条件として「年齢 35 歳まで」とか「 20 歳〜 40 歳」とか書いてある、あれも年齢差別です。同じ仕事をする能力のある就労希望者がいるときに、若い方を優先するのは不公平だ、と見なされます。いずれは、日本の雇用条件からも年齢制限は消える方向に動くでしょう。性差別撤廃のときと同じぐらい時間がかかるとすれば、おそらく数十年のスパンを見込む必要があるでしょうが、流れは止まらない。

 すると、差別したい心に残された聖地、最後の砦が容姿です。私は、この容姿に関する差別は一番最後まで残ると考えています。理由は二つ。まず第一に、他の領域に比べて、比較的大きな社会問題に発展しにくい。第二に、人が見た目で判断することはなかなか変えられない。

 かつて黒人であるというだけで殺されたり、女性であるというだけで仕事に就けなかったという問題に比べると、「私は容姿が劣るので不幸になっている」という異議申し立ては、本人にどれほど深刻な事情があっても、個人的な僻み以上のものとは受け取られにくい。おそらく美人とブス、イケメンとブサイクの間には、暗黙にかなりの社会的格差があるのでしょうが、なかなか「それじゃあ美人税を設けて容姿格差を是正しましょう」と言う呉智英のような人物は現れない。

 私は、もし容姿格差が大きな社会問題になるケースがあるとすれば、裁判員制度が導入されたことによる司法判断に変化が生じた場合だと思っています。平たく言うと、同じ罪状であるにもかかわらず、容姿のいい犯罪者の方が外見的にいけてない犯罪者よりも刑が軽くなることが起こったときです。これまでも、裁判官にはそういうバイアス(こんな美しい人が盗みをするはずがない/こんな悪そうなやつなら人を殺してもおかしくない)が働いているのではないか、という指摘はなされたことがありますが、あまり大きくは取り上げられなかった。つかこうへいの『熱海殺人事件』に登場する木村刑事は、殺人の容疑者に対して「お前が殺したのがブスだったからって罪が軽くなるほど日本の法律は進歩的じゃねえぞ」と名言を吐いたけど、もしかしたら日本はそこまで進歩するかもしれない。裁判員制度では、裁判員に被告の与える印象が非常に重要です。なるべく清潔でさわやかな印象を与える方が有利になる。アメリカではそのためのコンサルタントが商売になるぐらいです。

 判決は記録に残されるので、積み重なれば有用な分析用のデータベースが出来上がります。何十年かしたら、そういう比較研究が必要になっているかもしれません。

 容姿の格差がなかなか是正されないもう一つの理由は、人がどうしても目で見る情報を最優先することです。これは、人類が永い進化の間に身につけた特性なので、そう簡単に修正を施すことはできない。それに、見た目で判断することはそんなに悪いことなんでしょうか?

 これは本書から教えられたことですが、もし見た目の美しさで優劣を判断することが悪いのなら、美しい自然や美しい絵画を愛することだって、同じように悪とされなければ道理が通らない。それなのに、「私は美しい絵が好きだ」というと高尚な趣味の持ち主だと取られて、「私は美しい女性が好きだ」というと眉を顰められるのはなぜか。どちらも文の形としては「私は 美しい X が好きだ」という同じ構造をしているのに。

 これは結構考えさせられる問題です。著者も尊敬する井上章一は「美は権力だ。それは人を屈服させ、従わせる力を持つ。だから私は美人からの頼みを断れない」という重要な洞察をしました(私はこの言葉に出会ってから、自分が「美しい」と感じたときには、自分が冷静な判断をできなくなっているのではないかと恐れて、心をチェックするよう心がけています)。

 本書は、決してただの著者の女性の好みをダラダラ垂れ流した本ではありません。そういうところも沢山あってそれはそれで面白く読めるのだけど、でも見た目よりずっと長く鋭い射程を持っている。小谷野敦にハズレなし。