主義者のジレンマ

 山崎朋子『サンダカン8番娼館』を読了しました。いや面白かった。40年近い時の流れを感じさせない名作です。

 本書の主題である売春については、また改めて正式に取り上げたいと思いますが、本書にはそのほかにも面白いところがいくつもある。特に印象的だったのは、歴史学者民俗学者という職業の持つ困難についてでした。

 一般に、歴史学者にとって業績をあげる方法は二通りあります。誰も見たことのない史料を発掘するか、ありふれた史料から新しい解釈や理論を生み出すか、です。前者がフィールドワーク型、後者がアームチェア型です。後者の方が華麗で奇抜な芸当を披露するため、脚光を浴びることが多いのですが、独創的な発想と強力な理論構築力が必要なので、純粋にこのタイプという人は少ない。多かれ少なかれ、歴史学者は前者のタイプを兼ねます。だからみんな「新発見」の発掘に血眼になる。著者の山崎さんも、がちがちのフィールドワーク型です。

 彼女が果敢さと粘り強さという、フィールドワーカーに不可欠の資質を持っていることは、ほんの数十ページ読んだだけで分かります。都市中間層の出身でありながら、元娼婦の老女の証言を得るため、天草の貧村のその中でも最貧の家で共同生活を営むそのガッツは、見上げたものです。彼女がからゆきさんたちに対して抱く同情と義憤も本物だと思う。

 しかしその勇敢な女性が、皮肉にも自分の所業に罪悪感を覚えずにはいられない。それは、かつて地元から大量のからゆきさんを送り出したことを隠したい天草の地元民から見れば、彼女が「人びとのもっとも知られたくない秘密をつかみに来た女」(p.242)であるという立場上の難しさによるものです。山崎さんも、自分の立ち位置の難しさを熟知しているため、自らの身分を隠して「潜入レポート」せざるをえない。もし彼女が本来の目的を正直に伝えたら、人々の反応は、冷たい沈黙か、金銭をもって情報を売りつけようとするかのどちらかでしょう。そのどちらも「真実」を欲する彼女の望むところではない。

 いわば歴史家は、情報の盗人として村に侵入することになるのです。これは比喩ではありません。事実、彼女は証拠物品を「保存」するため、実際に窃盗をはたらいてしまう。これは私なんかが説明するより、本人の緊迫した描写によって語ってもらいましょう。元売春婦の一人の家をつきとめ、そこにインタビューに行ったとき、図らずも豊富な写真が貼られたアルバムを見せられたときのことです。

 わたしは、古びた大きなアルバムのずっしりとした重さを、それ以上の重さで受け取っていた。サンダカンにおける彼女たちの生活の片鱗が、映像という具体的なかたちでここに固定されてあるのだと思うと、わたしは敬虔な気持ちにならないではいられず、そしてその次には、これらの写真を何とか入手したい ―― と考えるようになったのである。……
 わたしにとっては ―― というよりも海外売春婦の歴史、延いては近代日本の女性史にとっては、おフミさんのあのアルバムは、この上なく貴重な証言のひとつだと言わなくてはならないのだ。……とすれば、わたしは何とかしてこれらの写真の埋没を防ぎ、歴史の証言として提出する義務があるのではないか ―― 。
 転々としながらわたしは、胸のうちで、ひとつの重大な決意を固めた ―― あれらの写真とパスポートを盗み出そうという決意をである。(pp.171-2)

 大事の前の小事 ―― 主義者は自分にそう言い聞かせて、正義のため小さな(と本人は信じる)不正を積み重ねます。この正義感の強い女性に非道を強いるのだから、イデオロギーの力というのは侮りがたいものです。職業人として誠実であろうとすることが、人間としての基本的な倫理と相反してしまう、そのようなとき、人はどのような選択をすればよいのでしょう。これほど切羽詰った状況はまれにしても、私たちもそういう選択を迫られることは皆無とは言えません。そういうとき、私たちはたいてい、小さな不義を犯すことを選びます。そして罪悪感に潰されないよう、徐々に心を鉄にして、イデオロギーに忠実な鋼鉄の戦士になっていく。
 首尾よく盗みを働き、家からバス停まで走って逃げた彼女は、全身の震えがとまりませんでした。それは、決して恥ずべきことではない。そのように心弱く震え続けることだけが、唯一イデオロギーの力に呑み込まれないための方法だからです。自分が震える小さな存在であることを知っているあいだ、少なくとも人はイデオロギーには支配されていない。本当に頼りない抵抗の仕方だけど、これしかありません。決してイデオロギーに対して別のイデオロギーをぶつけようとしたりしてはならない。