ブラック会社をぶっ飛ばせ

 世評の高い『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』は、やはり IT 業界の片隅に生きる人間として、私も観ないわけにはいきません。いま仕事がたてこんでいて休日も時間がないのですが、何とか時間をやりくりして映画館へ行きたいものです。ていうか、こういう話がリアリティを持ってしまうのって、やっぱり IT 業界なんだよなあ(泣)。お願いだから他の業界でもこういうの作って。

 この映画の原作になったスレッドは、私も数年前に 2ch で読み、当時、自分としてもかなり仕事が辛くて、出口の見えない閉塞感に苦しんでいた時期だったため、他人事とは思えない共感を持ちました。実際、この業界で働いていると、理不尽な激務のせいで体を壊す人、心を壊す人、そして死んでしまう人を、身近に見ることになります。私もかつて同僚が急死したとき、お通夜を手伝いに行きました。お葬式で、事情をよく呑み込めていない小学生のお子さんがお祖父さんの手にひかれているのを見たときには、働くということは幸せになる権利を放棄することなのだろうか、と真剣に思い悩んだ。その疑問は、今でも完全に払拭しきれていない。

 おそらく映画は、基本的には主人公の成長物語として最後にはそれなりのハッピー・エンドを迎えるのでしょう。カタルシスを与えることが目的の映画としてはそれでいいとして、現実には、新米が成長するだけでは無能なリーダーも現場に無関心な管理職もいなくなるわけではない。ブラック会社を本当になくすためには、現場でガムシャラにがんばるだけでなく、もっときちんとした戦略が必要になります。以下、その点について、映画が語らないことを書きましょう。

 まず、日本でなぜブラック会社と呼ばれる、人権法律ガン無視の会社が存在しえるかというと、労働者の側に会社と戦う手段が用意されていないし、会社のやり過ぎを監視するシステムもないからです。

 いや、そんなことはない。労働者には組合を作って経営陣と交渉する権利が認められているじゃないか、と言う人もいるかもしれませんが、労働組合はそれほど有効な武器ではありません。経営陣とつるんで御用組合化してしまう組合も多いし、それにもっと致命的なことに、組合は全部の労働者を守ることはできない。映画に登場するような中小企業には組合がないのが普通だし、あったとしても、組合は正社員しか守らない。最も立場の弱い派遣労働者のような人々を、組合は助けません(昨年派遣切りが問題になったとき、それに異を唱えた組合があったか?)。労働組合とは、一部の労働者の犠牲の上に一部の労働者を救うための制度です。だから、組合は労働者の戦う手段としては限定的な役割しか持たない。

 もっと根本的な問題は、日本では転職や起業が非常に難しいことです。今現在いる会社がどうしても辛い場合、そこから逃げ出すという外部オプションが用意されていれば、みんな無理に苦しい環境にしがみつく必要はない。しかし、映画でも「入れちまえばこっちのもんだ」という台詞があるように、日本企業は一度入ると出るのが非常に難しい。戦うことも逃げることもできない相手だからこそ、会社は遠慮なしに殴り続けられる。

 会社もそれを分かっているから、社員がなるべく逃げられないように道を塞ぐことに熱心です。結婚や家の購入を薦めたり、それどころか財形の転貸融資のように会社から金を借りることまでできるし、一般職というお嫁さん候補まで斡旋してくれる。また、昔は同じ業界の会社同士、辞めた人間は雇わないよう暗黙の協定を結んでいたりもしました。まるで教会やヤクザの破門状です。

 でもここ10年ほどで、この絶望的な労働環境に大きな変化がおきました。昔に比べて転職が非常にやりやすくなり、脱出口が広がった。私も、上述の同僚のお葬式に出てほどなく、会社を変わることになりました。転職自体はもう決まっていたので、その方が亡くなったことが原因で辞めたわけではないのだけど、その一件のおかげで退職の申し出を躊躇せず言い出せたのは確かでした。

 労働者をまともな人間として扱わない会社に、まともな人材は来ない。その事実を、会社の側に突きつけてやることこそ、ブラック会社を撲滅する最も有効な手段です。優秀な人材は、それに見合う待遇を要求すべきなのです。「いや別にいいんですよ。自分を雇ってくれる会社はここだけじゃないし」と、いつでも転職・起業カードを切れる状態にしておく。それによって初めて、労働者と会社の間に緊張感ある関係が生まれる。だから労働者は、いつでも転職できるようにポータブル(持ち運び可能)な技術を身につける努力をするべきです。IT 業界に救いがあるのは、割とそれがやりやすい業界であることです(だから私のような転職組も多いし、フリーで腕を売って渡り歩く人も少なくない)。稟議の通し方とか社内書類の決裁とか、一つの会社でしか役に立たない文脈的技能しか持っていないと、いざというとき脱出できないので、どんな酷い待遇を受けても会社にしがみつくしかなくなる。

 こういうことを言うと決まって、最近の若い連中はきついとすぐに逃げることを考える、こらえ性がない、というお叱りを中高年から受けます。確かに、私たちの世代にぬるさがあることは否定しない。でもだからって、会社に人間としての尊厳を売り渡したり、仕事と命を引き換えにする理由など、どこをひっくり返しても出てこないのだ、ということは、忘れないでいただきたい。