規制とインセンティブ

 賃貸と、一戸建て(or マンション)を買うのと、どちらが得か、という議論は長い間戦わされてきましたし、今でも完全に決着はしていません。また、前提になっている経済環境の変化にも影響を受けるので、長期で見てどっちが得かは、一概に言えません。未来は誰にも分からない。それでも、現時点でという条件つきなら、賃貸の方が純粋に金銭的な損得勘定では有利だ、という説が有力です。

 ところで、私はもうマンションを購入済みです。栄えある第一期理事長までつとめてしまった。この購入という選択は、上の議論に照らせばあまり賢い行動ではありません。それに加えて、私も別に金持ちではないので、当然ローンを抱えている。

 今のようにデフレが進行する環境では、借金を抱えている人は損をしやすい。デフレになると土地家屋の実質的価値が下がるからです。下手をすると、返済が苦しくなったのでマンション売り払ってチャラにしようとしても、資産価値の下落によって全然埋め合わせられなくなる危険もある(反対にインフレになると借金のある人は楽になる。だから私も心情的にはリフレ派を応援したくなる。しないけどね)。

 それでもなお敢えて不利な選択を引き受けたのには、私の方にも理由があります。日本の賃貸物件のレベルが低いからです。多分、同じグレードの部屋を借りようと思うと、購入する場合の 2 〜 3倍の単価になる。

 実は、最初に住む場所を探していたとき、買うという選択肢は全然考えていませんでした。私も賃貸を探していたのです。まだ若かったしね。でもあちこちの物件を見て回って気づいたことは、「日本のファミリー向け賃貸物件のレベルは、質量ともに低い」ということでした。ワンルームや 1DK クラスの賃貸は山ほどあるのに、2LDK 以上となると、間取りが気に入らなかったり、古かったり、立地が悪かったり、法外に高かったり、いまいち「これ!」というのがない。

 一体これはなんだろう、東京だけの現象なのかな、と首を捻っていたのですが、その理由が分かったのはしばらく後でした。実はこのマンション市場の偏りには、規制によるインセンティブの歪みが介在していたのです。

 問題は、借地借家法という法律です。この法律は、「店子(借りる側)は、地主(貸す側)よりも立場が弱いので、守ってやらなければならない」という精神で作られていて、店子が契約更新を申し出ると、地主側はこれを断ることができないようになっています。正確には「正当な事由」があれば地主は断れるのですが、かなり条件が厳しく、「自分で使いたい」とかだと認められないそうです。事実上、地主は断れない、ということです。

 一見すると、この法律は借りる側がいきなり住まいを追い出されて路頭に迷うことを防いでくれている、借りる側に有利な法律のように見えます。でも、ことはそう単純ではありません。この法律のせいで借りる側も気づかないうちにデメリットを被っている可能性が高い。

 その理由は、自分がもし貸す側だとしたら、この法律へどう対処するかを想像してみると分かります。

 自分の土地や家を他人に貸そうと考えている人は、借地借家法をどう見るのでしょうか。おそらく、安易に人に土地や家を貸すと、居座られて、出ていってもらうのはむずかしいと考えるでしょう。その結果、契約期間が終了したら確実に出ていってくれる友人や知り合い、あるいは信頼のおける企業へ貸すことを選択しようとするはずです。

 こうなると、これから土地や家を借りようとする立場の人は、土地や家を貸してくれる相手を簡単には見つけられなくなります。つまり、「すでに土地や家を借りている幸運な店子を守る借地借家法は、これから借りる土地や家を探さなければならない人を排除する」機能を果たしているのです。
伊藤元重『経済の読み方 予測の仕方』p.114)

 いわば、借地借家法は、店子が賃貸市場に新規参入することを阻害する障壁として作用する、というわけです。こうなると、借家市場は、「先に借りたもん勝ち」の世界になって、これから借りようとする若い世代はパイの分け前にあずかれません。地上げ屋という、暴力団が引き受ける闇ビジネスの話を皆さんもご存知だと思いますが、このビジネスがなぜ成立するかといえば、これも、陰湿な嫌がらせでもしないと地主が店子を追い出せないからです。

 この市場の歪みは、ちょうど労働市場のそれと全く相似です。労働市場においても、正社員のクビを切るのが難しいために、企業は不況になると新卒採用を抑制することで人件費カットをします。その結果、さあこれから市場に参入するぞ、と意気込んでいた若い世代が、就職氷河期と呼ばれるほどの厳しい環境にさらされることになる。今年もまた新卒にとっては厳しいようで、第二氷河期の到来はほぼ確実です。また、社員を簡単にクビにできないから、会社は窓際配属などにより精神的圧力をかけ、自主退社に追い込もうとする。お気づきのようにこれは、住宅市場における地上げに相当する行為です。

 ちょっと話がそれましたが、私が感じた「なぜ日本の賃貸はワンルームばかりなのだ」という疑問も、借地借家法の存在によって同じように説明がつきます。下手にファミリータイプの賃貸物件を作ったら、ずっと居座られるリスクを感じるので、地主側も怖くて作れないのです。ワンルームなら、たいていの店子は数年たてば確実に出て行ってくれます。「その結果、普通の家族がゆったりと過ごせる家やマンションの賃貸市場は未成熟なままになってしまいました」と、伊藤氏は前掲書で指摘しています。

 事実、借地借家法(それに類する法律)が全国に広まったのは 1940 年頃とのことですが、それより前の時代、たとえば明治時代には、大阪市のような都市部の住民の9割が借家住まいだったそうです。伊藤氏も、これを借地借家法が市場を歪めた傍証として挙げている。

 そんなわけで、本意ではないけれども、私も仕方なく賃貸市場に見切りをつけて、悲しきLS(ローン・ソルジャー)になる道を選んでしまったわけです。ローンには、最初に説明したようにデフレなど色々なリスクが付随しますが、まあそこは繰り上げ返済の鬼になるとか、複数のローンを組み合わせるとかでヘッジする、という妥協策で手を打つことにしたわけです。

 おそらく、別に焦って家買わなくたっていいや、と思いながらも、上記のような賃貸物件のレベルの低さに突き当たって仕方なくLSへクラス・チェンジした人は、私だけではないでしょう。それがまた住宅価格を不当に押し上げ、ローンの長期化も招いている。ローンが長期化すると転職も難しくなる。

 というように、借地借家法のような「弱きを助け強きを挫く」という単純な発想で作られた法律は、回りまわって当の弱きを挫くという構造を持っています。こういう無用の規制はすぐにでも廃止するのが自由主義国家の務めです。