大人になる時間

 昨日テレビで映画『フラガール』をやっていたので、途中から見ました。この映画を見るのは二回目だけど、二度見ても面白い。1年ぶりぐらいですが、印象的な映画だったので、割と細部までよく覚えていました。

 主人公の少女たちの住む福島県いわき市は凋落激しい炭鉱町。かつては「黒いダイヤ」と呼ばれるほど換金性の高かった石炭掘りも、エネルギー源が石油に転換する時代の流れを受けて、構造不況に陥っている。炭鉱夫のおじちゃん・兄ちゃんたちも一人また一人とリストラされて、いずれは会社ごと潰れる運命にある。

 新しいビジネスモデルへ転換しない限りジリ貧だということは、大人から子供までみんな痛いほどわかっている(むしろ映画では子供たちの方が危機感が強い)。でも、一つの環境に最適化されたシステムを、新しい環境のために再チューニングすることは、非常に難しい。主人公の兄ちゃんは「時代が変わったからといって俺らが変わる必要はねえべ」と言う。体は大きくパワーもあるのに、環境の変化に適応できずに滅んでいった恐竜を彷彿とさせます。

 一方、妹たち少女は、古いモデルに相対的にしがらみが薄いので、リゾート業という新しいモデルへの適応度が高い。さらに重要なことは、古い前近代が支配するいわき市において、主人公たち少女と、東京からやってきた「先生」(松雪泰子)だけが近代人であることです。前近代というのは、変化がない時代なので、基本的に同じことを繰り返していればいい。そこではあまり個人が頭で物を考えることは推奨されず、新しいことをやろうとする人間はむしろ排除されます。兄ちゃんがリゾート施設の建設に協力的な仲間の青年に向かって「お前、いつから頭で物を考えるようになったんだ!」と罵声を浴びせるシーンがありますが、これは前近代において頭を使うことが悪徳だったことをよく象徴している。

 そういう前近代では、子供が親の職業をつぐことは当然だと思われているので、娘が新しい職業を目指そうとすることにも批判的です。いわき市の大人たちには「職業選択の自由」という概念を理解している人はほとんどいない。

 でも娘は近代人なので「おらの人生はおらのもんだ! ダンサーになろうとストリッパーになろうとおらの勝手だべ!」と啖呵をきって家を飛び出してしまう。近代社会をドライブさせる原動力は、この「自分の人生は自分で決めるものだ」という信念です。これはもしかすると幻想かもしれないのだけど、でもこれがないと新しい事業が生まれないので、とりあえず「本当です」ということになっている。

 でも、この自己決定権には、厄介なことに責任がついてまわります。それは主人公の場合、自分の選んだ職業においてプロでなければならないということです。そのことを教えるのが「先生」です。プロのダンサーは、友達と辛い別れをした翌日でも舞台で笑顔でなければならない。客から野次が飛んでも一定水準の仕事をしなければならない。いいわけをしてはならない。泣いてはならない。

 炭鉱の事故に親が巻き込まれたという連絡を受けた生徒から「プロは親の死に目にも会えないのですか」と聞かれて、先生は「そうよ」と答える。

 それは中学生や高校生にとっては、早すぎる要求のようにも見えます。でも、本当はたぶん年齢は関係ないのでしょう。生き残るための戦いを開始したとき、人はプロになることを余儀なくされる。それはまた、大人になる時間でもある。

 余談ですけど、私は映画のラストで兄ちゃんが「先生」の借金の証文を食べて「チャラ」にしてしまうという大技を繰り出すシーンが結構好きです。情報が電子化されていない時代だからこそ可能な、大胆なソリューション。