『ブラック・ジャック』は今でも新しい

 池田信夫氏や藤沢数希氏が、医師と弁護士の免許制について面白いことを言っています。

 二人が論じているのは主に社会全体のリソース配分という経済学的な観点からのものです。文系のエリート層が弁護士を、理系のエリート層が医師を目指す状態は、社会全体から見て便益より損失の方が大きい。なぜなら弁護士や医師の大半は、前者が争いの調停、後者がルーチン的な手技をするだけで、新しい価値を生み出すイノベーションに関与しないからだ、というのが二人の共有する問題意識です。

 この認識は正しいし、この二つの職業がエリート層を惹きつける収入の高さが、業務独占を可能にする免許制によるものだ、という原因の分析も的を射ています。サービスの価格が高い直接の原因は需要に対して供給が少ないことなので、免許制を廃止すればどちらの職業も競争原理が働き、同じサービスの価格は今より下がることになります(ただ、医師の場合は診療報酬が法律によって決まっているので、診療報酬も自由に医師が決められるようにしないといけない)。池田氏フリードマンに倣って弁護士の免許制廃止を訴えるのも、その方が社会全体の便益が高くなるからです。

 この論理を医師にも適用すると、同じように無免許医の営業を合法化するべきだ、ということになります。医師の技術水準を示す意味で、資格試験を残すのは構わないにしても、その資格を持っていない人間が医業を営むことを妨害する理由がないからです。無免許のブラック・ジャックも大手を振って開業できるようになる。彼は希少価値を持つ自分の技術を高値で売っていましたが、これは市場経済の原理に照らして正しいことをしている。

 問題は、腕の悪い医者をどう見分けるか、ということですが、格付け機関など評判システムによる事後評価を行うことで、ヤブ医者とブラック・ジャックの区別もつくようになります。今でも週刊誌などは医者や病院のランキングを自前で作ったりしていますが、もっと厳格に審査するムーディーズみたいな格付け機関が必要になります。

 ただ、医業の場合にこの「事後調整」型のモデルが持つ無視できない欠点が一つあって、それは池田氏も言っているのですが、金銭的な損失と違い、身体的な損失(時には命にも関わる)は取り返しがつかないことです。医療過誤で死んだ人間は生き返らせられない。これが、前もってガチガチにヤブ医者をスクリーニングする現在の免許制度が心理的な支持を得る理由です(逆に言うと、現行制度を支持できる説得的な理由はこれしかない)。

 でも、これから超高齢化社会に突入する日本において、医師不足は酷くなることはあれ、待っていても解消することはありません。医師が足りない以上、解決策は増やすしかない。病人を減らす方向でもいいけれど、それだけじゃ現実には難しい。さりとていきなり無免許医の営業を認めるのもハードルが高いでしょう。それなら私は、前も書いたように、医師免許に階級性を導入するのがよいと思います。

 ルーチン的な診断と手技を専門に行う準医師というクラスを作り、医師の試験よりも基準を緩くする。そうすれば、医師は本当に高い技術と知識が要求される「コア医療」にだけ専念することが可能になります。アメリカやカナダにはphysician assistantPA)というこれに該当する職階があります。日本語だと、「準医師資格者」とか「医師助手」と訳されていて、『ER』ではジェニー・ブレがこの資格でカウンティ総合病院で働いていました。

 医師会はこういう既得権侵害を嫌がりますが、実際問題として、今後の医師不足と医療費高騰に対応しようとすれば、遅かれ早かれ、診療報酬を引き上げるだけでは追いつかなくなり、この制度の導入を検討せざるをえない日が来るでしょう。

 2/24 追記:経済学者の橘木俊詔氏も新著で理系エリートが医者を目指すことはリソース配分の観点から問題があると述べています。

私は多くの秀才が医学部をめざす姿を評価していない。確かに頭がよくないと医学をマスターできないので困るが、コミュニケーション能力とか、人へのやさしさなども必要である。頭でっかちの医者よりも、手先の器用な人のほうが手術に向いていることもある。さらに加えれば、医者以外にも社会では技術者、研究者、経営者、司法関係など、有能な人材が求められている世界がある。医師という分野に秀才が偏在している現状は好ましくないと判断しているが、いかがであろうか。(『灘校』pp.62-1)