無縁は自由のコストです

 NHK で放送されたドキュメンタリー「無縁社会」が大きな反響を呼んでいるそうです。番組は高齢者だけでなく、ネット上でも若い世代の共感を呼び、昨今の若者に「つながり」を重視する人が結構多いことを改めて浮き彫りにした形です。

 私も全部ではありませんが、この番組を見ました。確かに、友人も家族もいない老後を送り、一人で死んでいくのは、それは寂しい最期だろうな、というのが素直な感想です。でも同時に、これは日本の近代化が順調に進んでいる一つの証拠なのだから、決して否定的に捉えるべき現象ではないとも思う。

 近代は人を自由にしました。昔の大半の日本人は、地縁血縁に縛られて、生まれた土地を出ることも好きな職業を目指すこともできませんでした。でも、明治維新から始まる近代という時代がその呪縛を断ち切ることで、人は村から都市へ移動し、高い教育を受け、多様な職業に就くことができるようになりました。都市は労働力を集約し、高い生産性を可能にした。これらは全て、それまで人を縛っていた「縁」を切ることで可能になったものです。吉田鈴香氏も言うように、「そもそも、移動の自由がなく、女性はイエに閉じ込められたままで、農村の中での相互監視が行き届いていた時代であれば、一人寂しく死ぬことはないかもしれないが、その代わり、自己決定権もない」のです。

 それでも、多くの人が、自由なんていらない。私たちは昔の不自由でもいいから寂しくない社会が欲しいのだ、というのなら、民主主義国家である日本では、国民の総意のもと、そういう社会を目指すことも不可能ではありません。ただ忘れないでほしいのは、そのような前近代的な社会は、必ず近代社会との戦いに敗れるということです。この場合の「戦い」というのは、別に戦争のことではありません。まあ戦争をやっても近代社会が百戦百勝ですが、ビジネス上の戦いでも必ず前近代は近代に負ける。なぜなら前近代は、イノベーションの効率と生産性において、近代に全く太刀打ちできないからです。それは日本史を見ても、江戸時代の200年と明治以降の100年の発展のスピードを比べれば明らかだし、他の世界各国の歴史も例外なくそのことを示している。

 いま、中国やインド、ブラジルといった新興国は、ものすごいスピードで近代化を ―― つまり無縁化を ―― 遂げている最中です。彼らは無縁社会を恐れない。無縁社会の方が不自由な有縁社会よりいいことが多いと知っているからです。一方で、アメリカやヨーロッパなど既に近代化を済ませた先進国は、活力の源である自由を保存しながら、近代の後の時代(ポストモダン)に移行しています。その中で、日本だけが歴史を逆行して前近代に後戻りしようとすれば、必ず経済的な戦いに負けるでしょう。

 別に負けたっていいや、とあなたは言うかもしれません。別に勝ちたくなんかないし、それにそういう戦いの連鎖から降りた国だって、世界にはたくさんあるじゃないか、と。日本も世界史の片隅で静かな生き方をすればいい。

 私も、それができるなら悪くないかもな、と思う口です。でも残念ながら環境がそれを許さない。日本はすでに大国であり、当分は舞台からの退場を許されません。そばには中国という世界第2位(!)の経済大国と、最も危険な社会主義国である北朝鮮があり、この環境の中で日本が国力を失えば、必ず東アジアには大きな政治的経済的な混乱が生じます。それは日本にとっても損です。だから私たちは、まだ力を失うわけにはいかない。もっともっと無縁化を進め、都市に人口を集中し、知識産業におけるイノベーションを加速させないといけない。

 その結果、孤独死する人はさらに増えるかもしれません。でもかまわない。トータルで見れば、その方がまだましだからです。