ハードなだけでは生きてゆけない:西田宗千佳『iPad VS. キンドル』

 2010年1月28日、アップルはタブレット型 PC の iPad を公表し、Amazonキンドルソニーソニー・リーダーの 2強が支配していた電子書籍市場に参入を果たしました。iPad 自身は、あくまで「キーボードのない PC」というコンセプトの汎用製品であり、電子書籍は機能の一部に過ぎないとはいえ、既にダウンロードされた電子書籍は25万冊を記録しており、今後の電子書籍の成長の起爆剤になったことは間違いありません。
 このように北米で活況を呈する一方、日本では、権利の取り扱いが面倒だったり、出版社が電子書籍に警戒感を持っていたりして、なかなか電子書籍普及の積極的な動きが見えません。出版社サイドの「電子書籍との共存」という言葉からも窺えるとおり、電子書籍は既存の紙媒体の市場を奪う存在ではないかと疑われている。このままだと、アップルや Amazon が日本進出をしようとしても、コンテンツがなくて全く普及しない可能性も高い。

 こうした最近の動きだけに限ると、日本は電子書籍後進国にしか見えないのですが、本書が言うように、かつて電子書籍リーダーのハード開発で先端を走っていたのは、ほかならぬ日本でした。2003年には松下電器(当時)がシグマブックを、翌2004年にはソニーリブリエを発表しており、ハードとしてはほぼ技術的完成を見ていました。今ではリーダーの代名詞となっているキンドルも、これら先行機種の機能を受け継いでいます。

 しかし残念なことに、シグマブックリブリエもヒットせず、どちらも現在では販売していません。日本では、電子書籍市場が芽を吹き出すことはなかった。その理由として、本書は二つ挙げています。

 まず一つは、コンテンツがなかったこと。キンドルをスタートさせたとき、Amazon は 9万冊を用意しましたが、リブリエが発表された当時、読める本の種類は 800 しかありませんでした。これではわざわざ高い金払ってハードを買う人はいない。よく「ソフトウェアがなければコンピュータはただの箱だ」と言われますが、電子書籍の場合もそれは同じです。日本でこれほどコンテンツの準備が大変なのは、権利関係が複雑だからです。アメリカでは、デジタル化を含む全ての出版権を出版社が保有する包括的な契約形態(よくアメリカの書籍や DVD に記されている「All rights reserved」)をとるため、出版社を説得すれば一気に多くのコンテンツを電子書籍にできます。一方、日本では、色々な権利を出版社と著作者が別個に保有していることが多く、著者ひとりひとりを説得に回らないと電子化できない。これはオーバーヘッドが大きすぎる。酷い場合は、こういう権利の保有が明確に決められていないこともあり、その場合は交渉がさらに難航します。

 上の理由は、よく指摘されるものですし、非常に明白なので分かりやすいものです。でも、実は日本で電子書籍がうまくいかなった理由には、もう一つ重要なのがある。それが、ビジネスモデルの欠如です。Amazonリブリエを焼き直したハードを開発しているという情報を得たとき、ソニーの社員は、自分たちの失敗体験に照らして「Amazon は本当に電子書籍を成功させられるだろうか」という疑問を持たっといいます。その理由は、アメリカならコンテンツの契約問題が解消されるとして、一体どういう風に電子書籍を売るつもりか、皆目見当がつかなかったからです。

 私たちは普通、本を買うとき、本の代金だけを払って買います。そんなの当たり前だろ、と思うかもしれませんが、電子書籍の場合、その当たり前のやり方が取れません。無線端末にコンテンツを入れるためには、当然ネットからのダウンロードが必要になるのですが、ユーザはその際、本の代金とは別に通信料を払わねばなりません。本を買うためネットに接続するたび通信料を請求されるようでは、ユーザは気軽に購入できないのではないか。

 現在でも、ユーザがコンテンツを取得するために通信料を支払うことを厭わないモデルはあります。iPhone に代表されるスマートフォンがそうです。ただこれは「電話」という、従来からユーザが通信料を払うことに慣れているメディアだからできたことです。本を購入するために通信料も上乗せして取ることに納得してくれるユーザが多いとは思えない。

 この疑問は、至極もっともなものであり、Amazon も認識していました。そこで Amazon は、この問題をフリー戦略によって解決することにした。つまり、通信料をタダにしたのです。正確に言うと、「見かけ上タダ」にした。ユーザは、個々の電子書籍をダウンロードする際に、通信料を請求されません。書籍の代金だけ払えば買える。通信料は一括して Amazon がプロバイダに支払うことにしたのです。お分かりのように、これは厳密には通信料がタダなのではなく、実際は本の価格の中に織り込まれているのです(大体一冊につき数十セント)。でも、ユーザ視点からは隠されているので、購入時の心理的障壁を低くする効果があるわけです。これは、見事な行動経済学的なソリューションでした。

 このソニーAmazon のエピソードから分かることは、イノベーションは技術革新ではないということです。いや、確かにイノベーションを起こすためには、技術革新は必要条件です。しかし、それは十分条件ではない。めでたく画期的な技術を開発したとして、それを継続的にサービスへ繋げていくためには収益を生む構造(ビジネスモデル)がなくては長続きしません。ソニーはそれを作ることに失敗し、Amazon は成功しました。それが今日の差となって現れたのです(もっとも、ソニーの名誉のために付言すると、日本での失敗をうけて、すぐに北米市場で体勢を立て直した決断力と行動力は素晴らしいものでした)。

 日本は伝統的に、ハードを作ることは得意でも、こういう制度設計は大の苦手です。何で苦手なのか、私も理由がよく分からないのですが、困ったことに、事実としてそうなんですよね。

 本書はイノベーションがどういうときに起きて、どういうときに起きないか、その格好のケーススタディを提供してくれています。電子書籍に興味がある人にはもちろん、オイラもいずれイノベーション起こしてやるぜ、でも方法がよく分からないぜ、と思っている人にもお勧めです。