正義について

 いま NHKハーバード白熱教室が熱い。サンデル教授の舵取りも見事ですが、学生たちが情緒に頼らず、実にロジカルに議論を組み立てて建設的な方向へ進めていく様が見ていて爽快。まあハーバードの学生が優秀じゃなかったらアメリカも困っちゃうでしょうけど。

 正義や公正の概念を扱う政治哲学という分野は、日本ではあまり一般的な知名度がありません。でもアメリカでは、古くはロールズノージックといった大御所から、最近でもマッキンタイアやセンといった優れた研究者を輩出する分野です。しかし、テーマが大きいだけに、これだけの英才たちをもってしてもなかなか妥当な解を見つけられない、難易度の高い領域でもあります。

 日本で政治哲学がマイナーなのは、裏返してみると幸福なことです。なぜならそれは、真剣に正義や公正について基礎づける必要が生じるほどの激しい社会的対立を生む問題と無縁な証拠だからです。もともとが移民の国であるアメリカは、互いに決して相容れることのない正義の基準を持った集団がひしめきあっており、集団間の対立が顕在化しやすい。人種問題や宗教対立はしょっちゅうだし、格差も大きく、中央政治の場でもリベラルと保守が常に緊張関係にある。そのような社会では、黙って待っていれば何となく社会全体で正義の概念について暗黙の合意が形成される、というようなことは望み薄です。徹底的に論拠を突き詰め、言語化することで共有概念を作っていくしか分かりあう道がない。論理だけが価値観の違いを乗り越えられる。
 本日の第5回で取り上げられていたケースは、徴兵制と代理母でした。これらは学生たちにとっても抽象論ではすまない問題です。兵役経験のある学生もいるし、イラクでの慢性人手不足に悩む政府は、いつ徴兵制の復活に踏み切らないとも限らない。また世界の最高学府という場所柄、学生新聞に卵子バンクの広告が載っているという。

 番組では多くの学生が、徴兵制には反対の立場を取っていました。主な理由は、徴兵が自己決定権に対する侵害だからです。あくまで軍隊は志願兵によって構成されるべきで、給与を上げるなどの市場的解決が望ましいとする。これは自由主義的な立場からはオーソドクスな主張です。しかし、エミリーという女子学生が果敢に反論します。

 あなたがたは、軍務に就くことは強制されるべきではなく、自由意志によるべきだという。しかし、現実に軍隊に入り前線で危険な場所に赴く多くは、貧困層だ。彼らは決して望んで危険な仕事を選んだわけではないし、給与の良さに惹かれたわけでもない。それしか他に選択肢がなかったから、仕方なくそうしたのだ。これは見た目上は選択の自由があるかのように見せかけて、実は選択肢など与えていない。金持ちにだけ逃げ道を用意する、最もタチの悪い強制だ。それぐらいなら、徴兵制のがマシだ。その方が、一部のイデオロギー的に偏向した首脳部(※ブッシュ前大統領たちを指している)が戦争を起こした場合でも、彼らにも危険を負わせることができる。それによって、裕福な指導層が安易に好戦的になるというモラル・ハザードを防止できる。

 このエミリーの批判は、リバタリアンの痛いところをついています。選択の自由という概念は、各人が選択できるだけの経済的余裕を持っていないとそもそも機能しません。リバタリアンはそれを現実社会に強引に適用しようとして、結局のところ不公正に手を貸しているところがある。「パンが無いならケーキを食べればいい」と言うけれど、彼らは、パンもケーキも選ぶことのできない人間がいるとは想像していない。

 後半の代理母をめぐる議論も見ごたえのあるものでした。講義は実際にあった訴訟の事例から始まります。ある女性が不妊治療をしているカップルから報酬を貰って代理母を務めることに同意した。でも彼女は、いざ子供が生まれてみると愛情が湧いて、子供をカップルに引き渡すことを拒否した。彼女の行為は正当化されるか? もしそうだとしたらどのような理由で?

 このケースにおいて、多くの学生は代理母の行為は正当化できない、という立場を支持します。事前に契約に同意した以上、彼女にはその契約を遂行する義務がある。後からやっぱり嫌だといっても、それはただの契約違反にしかならない、という理由です。「いい年こいた大人がダダこねなさんな」と。これは、オーソドクスな契約論に沿った意見です。

 他方、これに対してエヴァンという学生が反論を試みます。代理母がわが子にどのような感情を抱くか、実際に生むまで知ることはできない。だから、契約の時点で彼女は契約に必要な情報を十分に持っていなかった。それゆえ、契約は強制力を持たない。

 これもまた、きちんと契約論に沿ったロジカルな反論になっている。実際、最高裁判所エヴァンと同じ論拠を採用して、一度は妥当と認められた契約を無効と判断しました(「Baby M」訴訟)。

 この問題は、私たちの行う行為のどこまでを労働と見なすべきか、というより深い問題も提起しています。代理母は、出産という、普通ならば金銭的報酬によって行うものではない行為を労働化し、市場での取引を可能にした。お金で子供を買うという点で、幼児売買の一種と見なせるものです。従って、代理母ビジネスを認める人は、同じように養子に値段を付けることにも同意を迫られる(講義でも契約有効派の女子学生が教授からこの点を突っ込まれて、「養子に値段を付けるのもOK!」と言い切っていた。見事だと思う)。

 この「出産」を「性交」と置き換えると、世間一般で「売春」と呼ばれているビジネスになります。しかし、代理母は社会的に徐々に認知されつつあるのに、売春はまだそうではない。売春を合法化しているのは、オランダやドイツ、アメリカのネヴァダ州など一部に限られます。でも代理母が認められて売春が認められない理由は何でしょう? 売春だって誰に迷惑をかけるわけでもない(むしろ顧客を大いに満足させている)のだからビジネスとして認めることに不都合はないはずなのに、私たちはこれに不正義を感じる。ここにも、政治哲学が解き明かさなければならない謎が潜んでいます。

 私は、個人的には日本でも売春を早く合法化し、売春従事者には性病検査を義務付けることが望ましいと思っています。売春を禁止することは、選択の自由を制限することを意味するので、端的に自由権の侵害です。貧困により他に選択がなく売春を行う人はどうする、という「エミリー論法」は、日本では該当しません。日本はもう十分に裕福なので、売春以外で生計を立てる手段はいくらでもあるからです。唯一の問題は、HIV はじめとする性病対策ですが、これはむしろ、今のように建前上、風俗では性行為が行われていないとされていながら裏で性行為が行われている状況の方が、野放しで危険です。性行為を行うことを前提として、検査や予防の体制を整備する方が効果がある。

 これは人によってはかなりとんでもない意見と受け取られるみたいですが、私は今のところこの意見を撤回すべき理由を見つけられていません。皆さんは、この主張を(あくまでロジカルに)論破できるでしょうか? 「気に入らないから却下」とかそういうのなしで。

 ハーバード大学の学生になったつもりで、考えてみてください。

 追記:このハーバードの講義は書籍化もされます。マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』。早い回を見逃した人はもちろん、そうでない人も「買い」で間違いなし。