クズである権利

 イルカ漁を批判するドキュメンタリー映画ザ・コーヴ」を上映する予定だったいくつかの映画館が、上映反対の抗議を受けて上映中止を決めました。これは非常に残念なニュースで、配給会社や映画館は、問題作を上映しようとすればこの程度の抗議を受けるぐらいのことは予想していただろうに、この弱腰ぶりは情けない。

 といっても、私がこの映画を評価しているわけではありません。配給会社はこの映画を上映することで、日本でも「建設的な議論をすることが必要」と言っているけど、そもそも動物の生命に優先順位をつけて「この世には殺してもいい動物といけない動物がいます。牛は殺してもいいけどイルカはダメです」という時代遅れのドグマティックな主張をする映画に対して建設的な議論ができるはずがない。こんな粗雑な言説が通用するのはアメリカ国内(のさらに一部)だけあって、まず最低のクズ映画であろうと思っています。

 それでも私がこの映画の上映を妨害する連中を許せないのは、彼らが表現の自由そのものを踏みにじっているからです。彼らも主観的にはこの映画をクズ映画であると考えている点では、私と認識は違わない。違うのは、私はどんなクズ映画であっても上映する権利自体は保障されなければならないと思っているのに対し、彼らは自分たちの基準で見て「クズでない映画」にしか上映を認めようとしないこと。これは、殺していい動物と殺してはいけない動物がいる、という映画の製作側と同じロジックに(当人たちは気づいていないだろうけど)依拠しています。

 彼らはともに、道徳的に許される行為と許されない行為が厳然として存在しており、後者を許してはならない、という価値観に同意していて、かつ、自分たちにはその線引きを行う権利があると考えている。こういうのを日本語で「同じ穴のむじな」と呼びます。しかし、この立場を取るならば、何が道徳的に許され、何が許されないのかを説得的に示す義務を負うことになる。これは極めて難しい問題です。『コーブ』側は、おそらくあっさり宗教的規範に訴えてしまうだろうけど、その議論は同じ宗教を信じない人にとっては普遍性を持たない。一方、宗教に頼らず「クズとクズでないもの」の判断を完全に基礎付けることに成功した人間は、歴史上まだ存在しません。それゆえ、どちらもドグマのぶつかりあいにしかならない。表現の自由とは、こうした不毛な争いを止揚するためのメカニズムです。

 かつて作家の高橋源一郎氏は、有害コミック規制に反対する文章で「表現の自由とはクズである自由だ」という名言を吐きました。自由とは、ロクでもない存在でありうること、自由とは、愚かであってよいことだ、と。

 この論理の前提となっているのは、「この世には豊かで芸術的な優れた作品がたくさんあり、それは保護されるべきだが、クズにはそんな特典を与えることはない」という発想であり、それは、おれの考えでは、表現がわからない人間が表現に関して持っているもっとも大きな妄想の一つなのだ。

 かつてSF作家のスタージョンは「SFの90%はクズである」といった。あの希代の読書家であった中島梓もどこかで「読んだ本の9割はクズ」といったことがある。この「90%」が実際には「99%」なのか「88%」なのか、おれにはわからない。だが、人間が関する表現の大半がクズであることは、統計など読まずじっさいその表現に接している人間にとって自明のことなのだ。「貧しい」のは漫画だけではない。文化は「クズ」の集積そのものなのである。もし「表現の自由」というものがあるとするなら、それは「クズである自由」なのだ。それがわからないなら、文化について口出しすべきではないのである。
『文学じゃないかもしれない症候群』pp.123-4)

 『ザ・コーブ』の上映に反対する連中は、映画に対して、クズであることを認めない。それはつまり、表現の自由そのものを認めないと言うに等しいのです。だから私は、どんな胸糞悪くなる映画であっても、脅しに屈さず上映してほしかった。それを見て私がイルカ漁反対に意見を変えることが絶対にないとしても。

 自分が「有害」漫画やポルノ、AVにアダルトゲームなどのジャンクカルチャーを好きなろくでなしであるという自覚のある人は、ぜひともこの馬鹿な右翼連中に罵声を浴びせてほしい。彼らは、あなた方の「クズである権利」をも否定しているのだから。