思考停止は気持ちがいい

 琴光喜野球賭博関与から始まった賭博事件は、相撲界全体を巻き込む規模に発展し、親方の追放という前代未聞の事態へと発展しました。

 しかし、私は最初にこの報道を見たときから、琴光喜のやったことのどこがいけなかったのか、よく分かりませんでした。せいぜい脅迫を受けるなんて脇が甘いなあ、とか、違法な賭博に手を出さなくても、株や FX だって十分ハイリスク・ハイリターンで合法なんだからこっちにすればよかったのに、とか、その程度の感想が浮かんだぐらいです。

 メディアでは、一貫して琴光喜ら賭博に関与した力士たちを断罪する論調が多いのですが、彼らのやったことは本当にそんなに悪いことなのでしょうか? もちろん、現行法で禁止されている以上、違法行為は罰せられるべきなのだけど、問題は倫理的に責めを負うかどうか、です。もしギャンブルが絶対的に悪いものであれば、胴元が公営か私営かは無関係なので、競馬や競輪にうつつを抜かす連中も琴光喜と同じぐらい批判されなければおかしいし、そんなギャンブルを公営で行うというのもどうかしていることになる。しかし、今のところメディアは JRA や JKA にまで矛先を向けるつもりはないように見える。

 また、イギリスのブックメーカーのようにスポーツ賭博が合法の国もあるし、アメリカが誇るギャンブルの聖地ラスベガスでは、民営のカジノが日々しのぎを削っています。イギリスでスポーツに賭ける人や、ラスベガスであり金全部すってきた旅行者も不道徳として批判されなければおかしい。暴力団とつるんだのが悪い、という意見もあるかもしれないけど、それなら暴力団が関係しない賭博をすればいいだけなので、賭博を悪とする本質的な根拠にはなりません。

 おそらく賭博を悪とする最も強い根拠は、それにはまって身を持ち崩すといけないから、というパターナリズムによるものでしょう。でもこんなのお節介以外の何物でもない。はまることで人生を破綻させてしまうものを禁止しようとしたら、酒もタバコもゲームも禁止しないといけない。賭博だけ禁止するのは恣意的という批判を免れません。賭博を禁止することが正当化されるとすれば、中毒に陥って正常な判断ができなくなった人に「離脱」させる場合だけです。これは、アルコール中毒患者に離脱治療が必要とされるのと同じです。実際、リバタリアンには、上のようなパターナリズムによる介入を不当として、賭博を合法とするべきだと主張する人もいます。人は自分の財産を好きな使途に使う権利(財産権)を持っている。たとえその使途が傍目どれほど愚かで馬鹿げていようと、何人もその使途に口を挟むことはできない。ギャンブルで多額の借金こさえるのも、バニーガール・クラブに注ぎ込むのも、その人に許された権利の範疇だ、と。

 今回の問題には、郷原信郎氏が『思考停止社会』で告発した「法令が出てくると、水戸黄門の印籠に対するのと同様に、その場にひれ伏し、何も考えないで遵守するという姿勢を続け」る日本人の姿があります。大相撲を告発する報道を見ていると、この人たちは図らずも手に入れた印籠を振りかざすのが楽しくてやっているのではないか、とも思ってしまう(酒井法子の薬物事件のときも同じものを感じた)。

 とりあえず何も考えず法令に従っておく、というのは、日常生活の多くのシーンでは妥当なものです。あらゆる法令について「この法令に正当性はあるのだろうか、あるとしたらどのような根拠に基づいているのだろうか」と立ち止まって内省していたら、どれだけ時間があっても足りません。法や慣習というのは、私たちに思考を停止させることで判断コストを下げ、社会をスムーズに回す役割を持っています。でも、全ての問題についてその態度を貫いていると、現状を追認するばかりで、社会体制は一歩だに動かなくなってしまう。郷原氏も指摘するように、物事を単純化し、疑問を持たない思考停止に陥ることが、今の日本の閉塞感の根底にあり、また社会としてのパワーを落としている元凶の一つです。

 だから、私は敢えて言いたい。琴光喜たちは、確かに法を犯したことについて批判されるべきだけど、でも道徳的・倫理的に責められるいわれなど本当はない、と。暴力団と不必要に付き合ったりしたのは間抜けだったけど、それは方法的に稚拙だっただけで、もっと慎重にやっていれば問題はなかった。今回の事件で最も検討されるべきは、私的な賭博を禁じる現行法に果たして正当な根拠はあるのか、ということなのです。せっかく大相撲が存亡を賭けて問題を提起してくれたので、これを奇貨として一人でも多くの人に思考停止から抜け出す機会にしてもらいたい。

 琴光喜や大嶽親方も縮こまってないで、「そんな理不尽な法令、オレが上手投げで土俵下まで吹っ飛ばしてやる」ぐらい言って反撃すればいいのに。もうどうせ失うものなんてないのだから、正面からぶちかましてほしい。