踏み込みの甘い男たち

 昨日で 9.11 から9年目を迎えました。今年は同時テロ現場付近にモスク建設計画が持ち上がったり、それに対してコーランを燃やすパフォーマンスを行う牧師が場所変更の取引をおこなったり(最初からそれが目的だったとしたら大した策士だ)、例年以上にアメリカでイスラム教とキリスト教の対立が激化しています。

 絶対的価値を信じない多くの日本人にとって、価値対価値の対決はとっつきずらい問題に見えます。しかし別に、アメリカ人だってこの種の問題が上手く扱えているわけではない、というのは報道を通して伝わってくる彼らの苦慮を見れば分かります。特に、いまホワイトハウスを占拠しているリベラル派は、長らく価値の問題について直接触れることを回避してきたため、こういう剥き出しの正義同士のぶつかり合いを止揚する方法論を持っていない。オバマ大統領も「信教の自由は大事だ」と当たり障りのない声明を出すぐらいのことしかできない。宗教的規範に訴えることを躊躇わなかったブッシュ前大統領とは対照的です。

 リベラルも、本心では内面にもっと踏み込みたいと思っている。コーランを燃やすことは、合衆国憲法修正第1条が保証する表現の自由なんかじゃない、とあの狂信的な牧師に言ってやりたいと思っている。しかし、価値中立性というリベラルの教義が、それを邪魔する。そのようにしてリベラルが手をこまねていているのを尻目に、宗教的原理主義者たちは人々の内面にまんまと入り込み、勢力を拡大してきた。それが政治的勢力としても無視できない存在となったことは、先の共和党政権の強大な基盤となった事実からも知れます。

 この事態に危機感を覚えたマッキンタイアやサンデルといった新世代のリベラルの論客たちは、伝統的な価値中立性の教義を捨て去り、より道徳の問題に直接関与しようと決意しました。それは、宗教や原理主義者たちと同じ土俵に乗って戦うことを意味します。

 公共の領域に入るにあたって道徳的・宗教的信条を忘れることを民主的国民に求めるのは、寛容と相互の尊重を確保するための一法に見えるかもしれない。だが、現実には、その逆が真実となりうる。達成不能な中立性を装いつつ重要な公的問題を決めるのは、反動と反感をわざわざつくりだすようなものだ。本質的道徳的問題に関与しない政治によって、公民的生活は貧弱になってしまう。偏狭で不寛容な道徳主義をみずから招くに等しい。リベラルが恐れて立ち入らないところに、原理主義者はずかすかと入り込んでくる。
マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』p.314)

 サンデルはこの目的を達成するための道具として「共通善」という、普遍的道徳の概念を持ち出すのですが、しかしこれがどのような内実を持つのかは分かりません。宗教的規範によらない普遍的道徳を確立することは野心的だが難しい試みです。本人もまだ答えを用意できていないと認めており、昨日 TV のインタビューで社会問題に対する自身の考えを語っているときも、言っては難だけどこれぞリベラルの見本というような中途半端で凡庸な意見だった。リベラル再生の道は遠そうだな、と思った。