怒りと響き:『悪人』

 映画『悪人』を観てきました。世評に違わずウェルメイドな作品でした。複数視点からの描き分けも洗練されていたし、深津絵里の地味さには驚いた。ここまでオーラを消せる主演女優というのも凄い。受賞も納得です。

 この映画の宣伝のキャッチコピーは「誰が本当の悪人なのか?」というものですが、まあそれに触れるとこれから見る人の楽しみを奪うし、ぶっちゃけ実際に見た私にもよく分からないので、これについてはスルーさせていただきます。代わりといってはなんですが、この映画の「裏テーマ」についてお話しましょう。それは、日本の地方における共同体の崩壊と、その結果、原子化した個人が必然的に抱え込むことになる孤独についてです。これは社会学や文学では頻繁に取り上げられているテーマですが、意外に映画の分野ではまだあまり前景化されていない(私が知らないだけかな?)。

 主人公祐一(妻夫木聡)が住むような地方(映画の設定では長崎の漁村)の、のっぺりとしたロードサイドの空間には、文化も娯楽もなく、そして最も深刻なことに、コミュニケーションがない。そういう場所で生活していると、一体自分が何のために生きているのか分からなくなってくる。祐一の「自分が生きとるのか死んどるのかわからん」という心の叫びや光代(深津絵里)の「この国道を行ったり来たりして終わるだけの人生なんて耐えられない」という呟きは、地方で暗闇の中をもがく若者の心を代弁しています。昔ならば、彼らに人生の意味や帰属感を与えてくれた村や会社といった中間共同体は崩壊して久しく、かといって、他に新しい共同体が生まれているわけでもない。唯一、救いを与えてくれるのは恋愛や友情といった個人対個人のつながりだけだが、それも成功する確率は極めて低い。

 共通のバックボーンとしての文化を奪われた人間の特徴は、言葉がないことです。祐一は自分でも「言葉で説明するのが苦手だ」と認めるとおり、自分の感情や考えを、言葉や表現に昇華する技術を持っていません。だから、何かを表現しようとするとき、行動に訴えるしかない。コミュニケーションを取りたい、誰かとつながりたいと思えばセックスしかないし、怒りを表すには暴力しかない。この直接性が彼の特徴です。動物に近いと言ってもいい。

 これは、娘を殺された父親柄本明)のケースと対照的です。彼もまた、娘が殺されるきっかけを作った大学生の増尾岡田将生)に殺意を抱き、一度はその衝動に流されて拳を振り上げる。でも最終的に彼は、自分の思いを言葉に出すことで、心を鎮めて拳を下ろす。それができたのは、彼が言葉を持ち、娘の殺害という遣り切れない事件を位置づけることのできる文脈を持っていたからです。

 後半で、自分の言葉を聞いてくれる光代という存在を ―― 遅きに逸したけど ―― 得ることで、祐一も自分の見た夢の風景を絵に描くなど、初めて表現することを学びはじめます。本当なら、それは子供から大人になる過程で、人間が誰しも学ぶ技術なのだけど、文化を持たない彼は、その機会を奪われていた。そして、本当ならその文化を与えてくれるはずの共同体が、もう二度と復活しないことを、祐一も光代も知っている。彼らの絶望の根はそこにあるのだけど、それでも光を求めて彷徨い続けるしかない。

 そういえば、この映画を見ていてもう一つ気になったポイントがあります。出てくる登場人物が、片っ端から血縁関係を重視するコミュニタリアンばっかりなんですよね。娘が死んだのは母親が甘いからだとなじる父親に、孫が殺人を犯したことに対しての責任を祖母に求めるマスコミ。そして世間に頭を下げる祖母。

 ただ一人、主人公の祖母に対して「あなたのせいではない」と声をかけるバスの運転手だけが、リバタリアンだった。しかし彼の声はあまりにか弱い。映画の登場人物がもっと強靭で孤独に耐えうるリバタリアンばかりだったら、もっとカラッとしたいい映画になっただろうに。

 その『悪人・修正版』では、みな強靭な精神力をもっており、誰も孤独に悩まない。祐一は佳乃を殺したりしない。個人に最大の価値をおくリバタリアンにとって、他人の生存権を奪うなどもってのほかですから。祐一の祖父母も、孫に養ってもらうような自立精神に欠けることはせず、自分たちが蓄えた資産で老後を送る。光代はきっちり仕事をこなし、出会い系にも手を出さず一生を独身で過ごす。劇中で、何一つ犯罪性のある事件は起きない。ううむ、ワクワクする筋書きだ。そんな映画があったら絶対に見に行くのに。ただ、もうタイトルは『善人』に書き換えなければならないのが、難点と言えば難点です。