エルスバーグの呪い

 おととい見た映画『悪人』の感想を、もう少し。

 実を言うと私は、この映画を見ている間ずっと、苛立ちを感じていました。祐一も光代も、そんなに田舎暮らしが息苦しいなら、さっさと違う土地に出てしまえばいいのに、と思ったからです。二人はまだ20代。十分やりなおしのきく年齢です。不満を募らせて暴発するぐらいなら、都市へ出て違う仕事を見つけ、新しい生活を始めればいい。そうすれば誰も殺されることなく、みんながよりハッピーになれた可能性があったのに。なぜ二人とも、日本国民に与えられた居住移転の自由を行使しないのだろう、と思うと歯痒くてイライラした。

 ただ、これが彼らの置かれている文脈を無視した考えであることは、私も知っています。いくら建前で「君たちにはどこに住み、何の仕事をするかの選択の自由がある」と言われても、祐一の目には選べるカードなんか見えていない。自由は特殊な文化の産物なので、人はこの概念を生得的に知っているわけではないからです。これも教育と訓練を経て初めて使い方が身につくものなので、最初から自由のない環境で暮らしている人間には一生身につかない。

 でも、彼らが都市に出て行けない理由は、きっともう一つある。もしかしたら、こちらの方がより重要かもしれない。それは、リスクと不確実性の違いに起因するものです。

 漁村での生活は、先の見えたものです。それは心楽しくもないけど飢え死にするほど酷くもない。祐一の従兄弟が「風呂入って、飯食って、病院か・・・」と表した単線的で変化のない毎日が続く。将来何が起こって、どんな障害や危険が待ち受けているかも大体把握できる(ような気がする)。確率をある程度計算できる危険のことをリスクと呼びますが、田舎暮らしは入力パラメータが少ないので、リスクの計算も相対的に簡単です。

 一方、都市に出た場合、その後の未来は端的に予測不能です。何が待ち受けているのか検討もつかない。首尾よく良い仕事と伴侶を見つけることができるかもしれないし、気づいたらヤクザの三下になって田代まさしにコカイン売りつけているかもしれない。まさに「鬼が出るか蛇が出るか」の賭けです。このように期待値の計算ができないタイプの危険が不確実性です。

 リスクと不確実性の二つの選択が可能な場合、人は前者を選ぶ傾向がある、ということを示したのが、経済学者エルスバーグです。

 例えば、赤玉が50個、白玉も50個入った壷Aと、赤と白の玉が合計100個入っているけど、その比率は分からない壷Bを用意します。それから、被験者にどちらかの壷から玉を取り出して、その玉の色を的中させられたら賞金をあげようと言います。そのとき、被験者の大多数は、壷Aを選択する、というのが実験の結果でした。この実験では、得られる賞金が同じ金額なので、二つの選択肢の結果得られる利得が異なることの多い現実のケースに適用するには注意が必要ですが、人が不確実性を極度に嫌う傾向を示すものです。都市は、赤玉と白玉の内訳が分からない壷と同じです。そこにどんな結果が待っているか、壷に手をつっこんで引いてみるまで分からない。

 この心的傾向は、ある意味で人間に賭けられた呪いです。この呪いを打ち破ることは容易なことではありません。それでも、多くの若者が都市に魅力を感じているという事実は、都市にとって追い風です。人に不確実性の谷をジャンプさせるだけの魅力を、都市は持っている。私もむかし、地方から東京に出てきた一人ですが、都市には、不確実性の谷を越えるだけのメリットがあると、実際に住んでいる今は思います。

 もし、いま地方で閉塞感に悩み、自分の人生のドアが閉じていく音が聞こえるという人がいたら、今からでも遅くない。都市に出ることを考えた方がいい。もし親に反対されたら「私には憲法により保証された移動の自由がある。私の人生は私のものだ」と言ってあげてください。