人生は大学まで待ってからでも遅くはないと思う

 学校におけるいじめというのが、いつから存在しているのか知りませんが、たぶん学校制度の成立時からあったのでしょう。いじめが全国的に大きな問題として受け止められるようになったきっかけは、中野富士中学愛知県西尾市中学で起きたいじめによる自殺事件です。後者の事件は、私もよく覚えています。西尾市は私の生まれ故郷に近いので、当時かなり周囲でも話題になった。つい先日も、群馬県で小6の子が自殺したという事件が報じられたばかりです。

 いじめの問題は、一般にイメージされているような子供のモラルの問題ではありません。ましてや最近の子供が精神的に荒廃したから起きているわけでもない。その理由は、いじめが小中高と満遍なく起きるのに対し、大学に入るとパタッと起きなくなるからです。国立教育政策研究所が今年発表したレポートによれば、特にいじめが起きやすい学年とか学校という傾向は見出せず、「いじめられやすい子」という類型もないといいます。つまりいじめは、小中高までは全国の学校に遍在し、かつ恒常的にある現象だ、ということです。残念ながら上記レポートの調査対象に大学は入っていませんが、大学生がいじめを苦に自殺したというニュースは聞いたことがない。これは、なぜでしょう。大学に入った途端、それまでいじめを行っていた悪ガキどもがいきなり人格的成熟を迎え、高いモラルを持つ市民になるからでしょうか。それはちょっと非現実的です。それに、大学卒業して会社に入るとまたいじめは再発するのです。職場でのいじめやパワハラ/セクハラには、多くの企業が神経を尖らせている。

 なぜ大学だけがいじめの無風空間になるのか、その理由は構造的な観点から説明がつきます。要するに、大学という組織は、退出がものすごく簡単なのです。嫌いなら行かなくても(親は渋い顔するだろうけど)誰からも文句を言われませんし、どうしても嫌いなら退学するのも自由です。大学中退なんて世の中にゴロゴロいる。「学級」という概念も、一応最初の頃はあるにはあるのですが、高校までに比べると希薄化していて、人間関係が非常にあっさりしたものになる。こういう希薄空間ではいじめは成立しません。いじめは、いじめられっ子が律儀に登校を繰り返し、いじめっ子と毎日クラスで顔つき合わせる濃密空間でこそ起きるのです。自由にトンズラこける環境では、いじめられっ子だって黙っていじめられてやる義理はないですから。

 だから、いじめを構造的に解決するのはすごく簡単です。小中高も大学並みに退出自由な組織にすればいい。不登校や退学をもっと簡単にできるようにする、ということです。もちろん、子供の知的教育の場がなくなっては困るので、自宅学習や塾、フリースクールといった代替的な教育手段をもっと充実させる必要があります。今は学校に行くことが教育の唯一の選択肢みたいに思われているけど、別にそんな必要はありません。子供に逃げるという外部オプションを増やしてやれば、いじめの問題は原理的に解決できる。要するにいじめとは、昔の村八分と同じで、逃げ場のないムラ社会でだけ起きる現象なのです。職場のいじめ問題も、転職市場が成熟するにつれ減っていくはずです。

 また、子供が(大人でもいいけど)逃げ込める希薄空間には大学以外にもう一つ代表的なものがあります。それは、市場です。ここは、価値を提供できる人が相応の敬意をもって扱われる実力主義の世界です。出自とか性別とかいじめられっ子だとか、そういうのは一切関係なし。金を稼ぐ腕があれば、堂々生きていける。周知のように、歴史上最大のいじめられっ子はユダヤ人ですが、彼らは金融の世界に逃げ込むことで生き延びることに成功しました。貨幣は彼らを差別しなかったからです。

 だから、今いじめにあって辛い思いをしている小中高の子たちがいたら、人生を投げるのはもう少し待ってもらいたい。いま君たちが知っている世界は、おそらく学校が全てだと思うけど、それは社会一般から見るとむしろとても特殊な閉鎖空間なんだ。大学に入ると、それまでの閉塞性がウソみたいな、自由な空間が開ける。もちろん、腕に覚えがあればいきなり市場を目指してもいい。でも市場は真剣勝負の場なので、厳しい場所でもある。いきなり市場へ出るが無理だと思えば、まずは大学を目指すのがいい。

 不登校を選択して自宅に引きこもる、という選択肢も、緊急避難としては否定しない。しかし自分の部屋というのはどん詰まりで、どこへも繋がっていない。だから一時避難場所にはなりえても、そこから攻め出す橋頭堡には使えないんだ。最終的に、君たちは市場を目指さなければいけない。そのためのとっかかりとして、まずは大学を目指すのがいいんじゃないかと、私は思う。そして、そこに入る手段として、必ずしも学校へ通う必要があるとは、思わない。