カテゴリー・ミステイクの悲劇

 大相撲の八百長問題が世間を騒がせています。私は最初、これが違法行為であるため、それが非難を浴びているのだろうと考えていました。スポーツにおける八百長はその基本精神にもとるし、サッカーの TOTO ように賭博の対象になっている場合は明らかな詐欺行為です。しかし、どうも事情を追ってみると、大相撲における八百長はいかなる犯罪にも問われないという。ここで私は、はたと分からなくなりました。一体、八百長の何が悪いのでしょう?

 もちろん、法に触れないとしても倫理的に許されない行為というのはあるでしょう。しかし、大相撲の八百長がそれに該当するかというと、その根拠は薄弱です。たとえ筋書きが決められていて勝敗が事前に決まっていたとしても、観客はそれを知らない限り興行を楽しむことができる。そこには何の不都合もありません。つまりこの問題は、私たちがその外見から、大相撲を真剣勝負の格闘技やスポーツだと勘違いしてしまったことに起因しているのです。「興行」という言葉がいみじくも表しているように、大相撲は格闘技ではなく、歌舞伎や演劇のような「ショー」であることにその本質がある。ショーならば、むしろ台本がない方が不自然です。

 「八百長は悪いことだ」、「ガチンコこそ尊い」という倫理観は、本来はスポーツにしか該当しません。大相撲の八百長を統計的に証明したマーク・ダガンとスティーブン・レヴィットの論文のタイトルは"Winning Isn’t Everything: Corruption in Sumo Wrestling"です。「Corruption(腐敗)」―― 大相撲をレスリングのようなスポーツの一種と捉えるアメリカ人の文化的フレームでは、八百長は腐敗以外のものではありえない。戦後、日本人はこのアメリカ的倫理観を無意識のうちに深く内面化してきたため、八百長と聞くと反射的に「悪」と感じてしまいます。でも、これは本当はカテゴリー・ミステイクなのです。ショーが筋書きを持っていることは悪でも善でもない。ショーの評価は、その筋書きが上手く出来ているかどうか、ただその一点にかかっている。だから相撲協会も謝る必要なんかなくて、「相撲を格闘技のような野蛮なものと一緒にしてもらっては困る。これは完成されたショーであり、今回、我々に落ち度があるとすれば、筋書きがあることを演出上の効果を狙ったのではなく観客に漏らしてしまったことだ」と堂々反論すればいい。

 思えば数十年前、同じように「スポーツかショーか」の間でアイデンティティの揺らぎに苦しんだ業界がありました。それは、プロレスです。歴史的にはプロレスも、筋書きを持ったショーとして出発しました(業界用語でその筋書きは「ブック(台本)」と呼ばれる)。しかしやがて、真剣勝負こそ尊いという価値観にコミットした佐山聡アントニオ猪木前田日明といった若いレスラーたちが現れ、彼らは「シュート」が可能な分派を立ち上げたり、格闘技の世界に真剣勝負の場を求めて出て行ったりしました(「レスラーはボクサーよりも強い」ことを、なぜ猪木は証明したかったのか。ここには哲学的問題が潜んでいる)。もしかすると今は大相撲の過渡期で、いずれ新日本相撲とか、USWF(Universal Sumo Wrestling Federation)とか、それぞれに特色を持った幾つかの団体に分かれていくのかもしれません。私はどちらかというと、レスリングなんかはショー的要素が強い方が好みだけど。