太陽を追いかけて:有馬哲夫『原発・正力・CIA』

 読売新聞は、5/21 付けで「東電巨額赤字 国も原発賠償に連帯責任を」という社説を掲載しました。タイトルが示すとおり、政府も原発事故に責任を負うべき、と主張する内容です。その根拠は社説本文において明示されていないのですが、おそらくこれまでの歴代政権が国策として原発を推進してきた以上、東電は手足で、頭は政府だったのだから、政府にも責任がある、というあたりでしょう。この論理は、一般的な国民感情を納得させるものでもあります。そして、もし原発を推進してきたことによって今回の事故に責任を負わなければならないとすれば、読売新聞もまたその立場にある。

 読売新聞は、朝日、毎日といった他紙と比較しても、早くから熱心に原発の推進を訴えてきたメディアです。1950 年には湯川秀樹ノーベル賞受賞を記念して「湯川秀樹奨学金」を設立したことを皮切りに、1954 年には「ついに太陽をとらえた」という原子力の平和利用をテーマとした連載を開始。翌 55 年に読売新聞が中心となって開催した「原子力平和利用博覧会」は、42 日間で 35 万人を動員し、国民に原子力のもたらす明るい未来をアピールしました。55 年当時の読売新聞の記事の見出しを見てみると、原子力にかける並々ならぬ意気込みが伝わってきます。

1/1 米の原子力平和使節ホプキンス氏招待
1/8 原子力の年 各界の声をきく ホプキンス使節を迎えるにあたって
1/10 原子力の民間製造 米原子力委で許可発表
1/19 米、原子力発電に本腰
1/28 広島に原子炉 建設費 2250万ドル 米下院で緊急提案
2/10 原子力マーシャル・プランとは 無限の電力供給
3/20 産業界に原子力革命 ホプキンス氏来日を前に抱負を語る
3/24 明日では遅すぎる原子力平和利用
4/24 原子力平和利用と日本 原子炉建設を急げ
(『原発・正力・CIA』pp.80 - 83 から抜粋)

 読売新聞が原子力に熱意を注いでいたのは、当時のオーナーだった正力松太郎の意向によります。本書は、「なぜ新聞社の社長が原子力政策にそれほど執着したのか」という謎を、当時の一次資料を丹念に精査して解き明かしたものです。日本の原子力政策の原点を知るためにも、いまこそ読まれるべき一冊です。

 本書によれば、正力が原子力に関係するようになったのは、当時の複雑な政治状況がなせる一つの偶然でした。もともと、メディア界の人間である正力には、エネルギー分野に関心が薄く、彼の主な興味は、放送に有利なマイクロ波の使用許可を得るため、政界進出することでした。彼は何とか自分が総理大臣になって電波を獲得しようと考えていたのですが、政界に有力なコネもなく、それどころか当時政界を牛耳っていた吉田茂一派と折り合いが悪いこともあって、政界進出は難航します。

 それだけなら今でも見かける永田町名物の権力闘争ですが、ここにもう一人、厄介なステークホルダーが絡んできます。それが、タイトルの「CIA」が示すアメリカです。

 当時のアメリカは、端的に言って追い詰められていました。追い詰めていたのは、共産主義の雄ソヴィエトです。太平洋戦争が終わったときには原子爆弾を開発する技術を持っていたのはアメリカただ一国でした。そのポジションに胡坐をかいていた、というほど油断していたわけではないにせよ、しばらくは原爆を持っていることで外交上有利な立場にあると思っていた。ところが 1949 年 9 月、ソ連が原爆保有を宣言したことで、アメリカに震撼が走ります。これまで落とす側だったのが、一気に落とされる側になる可能性が現実味を帯びてきたのです。トルーマン大統領は、1950 年 1 月、賛否両論あった水爆の開発を強引に指令します。「より強い力」を持つことで、ソ連を抑え込む作戦に出たわけです。アメリカの技術者たちは日夜奮闘し、わずか 2 年後の 1952 年 11 月、水爆の開発に成功します。

 ところが。

 あくる 53 年 8 月、ソ連も水爆実験に成功、あっという間にアメリカに追いついてしまいます。原爆のときは 4 年かかったのが、今回はわずか 9 ヶ月。このままでは、遠からずアメリカは軍事力でソ連の後塵を拝するようになるだろう・・・。

 追い込まれたアメリカは、大胆な戦略転換を図ります。20 年ぶりに民主党から政権を奪還したアイゼンハワー大統領は、1953 年、国連総会で有名な「アトムズ・フォー・ピース」演説を行いました。これは、世界各国に原子力の平和利用促進を呼びかけるもので、IAEA の設立なども盛り込まれていました。腕力ではソ連に勝てなくなりそうだったので、「もめ事を暴力で解決するのはやめましょう」と、急に物分りのいい学級委員長みたいなことを言い出したわけです。

 こうして、アメリカと正力が結びつくことになります。日本において、原子力の平和利用という名目で原子力の開発を行うためには、資金・政治力・メディアが必要になる。特に、広島・長崎の心理的後遺症が癒えぬ日本では、メディアを通じた心理操作が非常に重要な役割を果たします。ここでアメリカが目をつけたのが、読売新聞と日本テレビという大メディア網を持つ正力だったわけです。

 一方の正力本人は、アメリカから原子力の話を持ちかけられても、当初は「政治的カードの一つ」と考えていたようです。彼が目指していたのは、あくまでメディア界の掌握と政治家としての大成であって、原子力はそのための道具だ、と割り切っていた節がある(このため、CIA は正力への支援に慎重でもあった)。

 正力(および読売新聞)と日本政界、そしてアメリカ、という三者が、それぞれの思惑を抱えて、その後どのような歴史の道筋を歩んでいったかは、皆さんも本書を読んで確かめてみてください。昭和史というのはダイナミックで面白い本が多いのですが、本書も新書ながら密度の濃い力作です。正力に関して言えば、本業のメディアで本望を成し遂げられたとは言えず、逆に、道具と割り切っていた原子力の分野において「原発の父」と呼ばれるほどの功績を残すことになったのは、皮肉といえば皮肉です。

 もし正力が今日生きていて、福島第一原発の事故を見たらどう思うでしょうか。自らが日本中に広めた原子力発電所の惨状を見て心を痛め、「脱原発」へ方向転換する ―― というシナリオは、彼の性格から考えて想像できない。何しろ正力は、新宿の伊勢丹で開いた原子力展に、被曝した第五福竜丸の船体を展示して集客したというエピソードを持つ豪の者です。彼ならばきっと「この失敗の経験を活かすことで、日本は世界最先端の原発先進国になれる。そしてそのセンターは福島県をおいてほかにない。これは千載一遇のチャンスである」と言ったのではないか。「思想性なく、酷薄な俗物」と評された、人間的には問題のある人物でしたが、スケールが大きかったのもまた事実です。彼がいま読売新聞のオーナーだったら、「政府と東電だけではない。わが新聞社にも責任はある」ぐらいのことは、言ったに違いない。