石原莞爾と杉原千畝

 日本企業、特に大企業についてよく指摘されることに、「現場は優秀で上層部は無能」という特徴があります。半ば自虐的なジョークとして大企業の社員自らが「ネタにする」こともしばしばです。この感覚は、日本の組織で働いている人の間ではかなり広く共有されていて、私自身、自分の社会人経験に照らして、けっこう賛同できる意見でもある。なぜそうなってしまうのか、その理由も興味深いところですが、ともあれ、「現場が上の命令を無視して独断で動き、華々しい成果を挙げる」という物語は、日本人の好物です。「事件は現場で起こっているんだ!」と上司に怒鳴って突っ走る青島刑事は国民的ヒーローだし、日本のサラリーマンがよく口にする「現場主義」という言葉にも、バックオフィスでふんぞり返っているお偉方への反感がこもっている。

 そういうサラリーマン的感覚の延長で考えると、東京電力の吉田所長の造反に喝采を送りたくなる気持ちは、理解できないものではありません。技術的には吉田氏の判断が正しかったことは、東電上層部と政府も認めているし、トップの原発事故に対する対応の拙劣さとのコントラストが、より一層、吉田氏の英雄性を高めている。本当に彼の独断によって原子炉への海水注入が継続されたのかどうか、まだ確証は得られていませんが、早くもネット上では彼を英雄視する声が出ています。

 しかしそうした事情を勘案してもなお、私はやはり、海江田経産相が言うように、吉田所長には何らかの処分が必要だと思います。その理由は、第一に上層部からの命令を無視して独断で判断を行ったことそれ自体が法の支配への挑戦であること、第二に、その事実を今まで隠していたことは重大な背任であること、この二点です。今回、吉田所長は IAEA が事故評価を正しく行うことが出来るよう、注水継続の事実を明らかにしたそうですが、逆に言うと、この情報を東電上層部と政府には報告しなかったことで、彼らが正しい事故評価を行うことを妨げていたことになる。吉田氏としては、「どうせ彼らには正しい情報を伝えても無駄だ」という見限りの気持ちがあったのかもしれないけど、もしその情報を把握していないことが原因で政府が重大な判断ミスを犯すことがあったら、どうするつもりだったのか(いや、現にそうだったのかもしれない)。その時は、また「現場独自の判断」で「正しい措置」を取ったのだろうか。それはもう、アナーキー以外の何物でもない。

 第一の理由の方は、もっと深刻です。現場が独断で行動するという日本組織のお家芸の一番華々しい実例は、石原莞爾らが率いる関東軍が成功させた満州事変でしょう。中国軍との圧倒的戦力差をものともせず、たった 5ヶ月で満州全土を占領し、独立国まで樹立した。軍事史上稀に見る大戦果です。これも陸軍上層部の許可を得ず、現場の石原たちが勝手に実行に移した作戦で、当然のことながら統帥権を犯された昭和天皇は怒り心頭だったし、陸軍のトップも石原をもてあましました。でも、そのあまりに大きな成功のせいで、誰も「英雄」石原を処分することが出来なかった。

 石原莞爾が参謀として優秀だったことは疑いありません。しかし政治的センスは無かったと言わざるをえない。彼は自らの行動によって、強烈かつ誤ったメッセージを軍全体に向けて発してしまった。それは「現場が良かれと思ったなら、上の命令を無視して行動してよい。結果オーライなら許される」という危険極まりないものです。そして、軍上層部は石原を処分しないことで、そのメッセージの正しさを保証してしまった。

 もう後は、「お墨付き」をもらった陸軍の現場は暴走しまくりです。石原は、自分ほど頭のよくない連中が自分の真似をしてスタンドプレーに走るのを苦々しく見ていたという。2・26事件が起きたとき、首謀者の将校たちは石原が味方をしてくれると期待しましたが、当の石原は徹底的に鎮圧しました(その徹底ぶりは、昭和天皇に「石原は何を考えているのか分からない」と困惑させたほど)。石原にしてみれば、「お前らみたいなはねっかえりとオレを一緒にするな」という気持ちだったのかもしれない。満州事変は緻密な計画と周到な準備があって初めて成功したのだ。激情に任せた暴発とは違う、と。でも皮肉なことに、そのはねっかえりにレールを敷いたのは、ほかならぬ石原です。満州国樹立という短期的成功に対して、泥沼の日中戦争という代償を払うことになった収支について、石原はどう思っていただろうか。

 「現場の独断」で動いた事例として、もう一つ私が連想するのは、杉原千畝です。対ロシア方面の外交官として活躍した人で、外務省の命令に背いてユダヤ系難民に大量のビザを発給して 6000 人の命を救い、「日本のシンドラー」とも呼ばれます。「上層部の命令より人命を最優先した」という共通点を見れば、今回の吉田所長は、石原よりはむしろこの杉原に重ねられるかもしれない。

 当時、日本はドイツと同盟を結んでいたため、ユダヤ系難民へのビザ発給は、明らかに国益に反する行為でした。事実、杉原はドイツから「スパイではないのか」と疑われた。本国からも疎まれた彼は、ほとんど処分同然の形で退職を迫られ、不遇の後半生を送ります。杉原の名誉が回復されるには、2000 年まで待たねばなりませんでした。

 それでも彼は自分の良心に従う道を選んだわけですが、そのとき行動の根拠としたのは、国法や国益よりも優先される「人間としての普遍的な法」の存在でした。杉原はクリスチャンだったこともあり、はっきりと「神の法」の存在を意識していました。「もし私が政府に従えば、神を裏切ることになる」という言葉も残しているほどです。政府のお偉方に睨まれるのと、神に睨まれるのと、どっちが怖いか、彼には明らかなことだったでしょう。

 この「神の法」から宗教色を抜くと、自然法の概念になります。憲法や刑法みたいに実定的に決められているわけではないので、中身が曖昧という欠点はありますが、杉原のように、人間としての魂を試されるような状況に置かれたとき、最後の拠り所に出来るのはこれしかない。吉田氏を擁護するためにも使えるかもしれない。しかし、この自然法は近代国家にとっては厄介な代物です。自らの権威を超える存在(神や自然)を権威の源泉とするので、国法よりも上位に位置づけられてしまい、人々は「私は自然法に従っているだけです」と言えば国法を無視して動けるようになる。ある意味、オールマイティカードみたいなものなので、無闇にこのカードに手を伸ばすべきではない、というのが私の考えです。

 さて、吉田所長の今回の行為(もし本当に独断で注水を継続していたとして)は、石原と杉原、どちらにより近いものでしょう。擁護することのできるものでしょうか。もし擁護できるとすれば、いかなる根拠によって可能でしょうか。考えてみてください。

 2011/6/4追記:先日、もう一つ興味深い事件が起きました。茨城県石岡市の消防本部の救急救命士の男性が、勤務時間外に交通事故の現場で救命処置を行いました。救命処置を勤務時間外に行うことは法律で認められておらず、処置をとる際に本来は必要とされる医師の指示も受けていなかったことから、この男性には停職 6 ヶ月の処分が下され、彼は依願退職しました。
 この救命士の男性が、善意から行動したことは間違いない。でも、それは法令違反の行為であるという点で、吉田所長や杉原千畝の行為と同類です。彼の行為は、法の支配への挑戦だったのか、それとも自然法を遵守した結果なのか?