ダブルスタンダードの功罪

 先月末、高木浩光氏のブログエントリ「ウイルス罪について法務省へ心からのお願いです」で、気になるニュースを見かけました。現在国会で審議されている「ウィルス作成罪法案」の内容について、江田法務大臣が、「バグの存在を知りつつ放置した場合」にも違法となる可能性があるという答弁を行ったのです。議事録から、該当する箇所を引用します。

大口委員:プログラム業界では、バグはつきものだ、バグのないプログラムはないと言われています。そして、例えば、無料のプログラム、フリーソフトウエアを公開したところ、重大なバグがあるとユーザーからそういう声があった、それを無視してそのプログラムを公開し続けた場合は、それを知った時点で少なくとも未必の故意があって、提供罪が成立するという可能性があるのか、お伺いしたいと思います。

江田国務大臣 あると思います。
(第177回国会 法務委員会 第14号 平成23年5月27日 議事録

 大口委員が問いただしている「未必の故意」は、よく耳にする法概念なので、ご存知の方も多いでしょう。意図的に相手に不利益をもたらすつもりがなくても、「もしかすると自分の行為によって不利益をもたらすことがあるかも」と認識していた場合にも、故意が認定される、ということです。ソフトウェアの例に即して言えば、「ああ、バグ見つけちゃった。このバグを放っておくと、ユーザーが迷惑するかもな」と知った上で「でも直すのメンドくさい」という理由で放置しておくと罪になる ―― かもしれない。

 ソフトウェア開発者にとって、これはかなりハイリスクな法律です。いったんリリースしたソフトウェアに対して、フリー/商用問わず大きな改修コスト増を見込まなければいけなくなります。もちろん、全てのバグについて、実際に違法認定がされることはまずないでしょう。大口委員は「重大なバグ」に限定して質問しています。これを裏返せば、「普通のバグ」については適用されないという解釈になる。

 何だそうだったのか、よかったよかった一安心 ―― となるかといえば、これもそう単純ではない。ちょっと考えれば分かるように、「普通のバグ」と「重大なバグ」の線引きが全く分からないからです。明確な基準を行政側から出してもらわない限り、開発者は「重大な」の範囲を広く取って慎重に動くしかない。

 かつ、行政側は絶対に明確な基準を出したりしません。なぜなら、まさに基準を曖昧にすることが彼らの目的だからです。はっきりした違法/合法の基準があれば、開発者は安心して開発を進められます。でも基準が不明瞭な場合、「これは違法だろうか? これは大丈夫だろうか?」と「お上」の顔色を常にうかがわなければならない。行政側は、これが自分たちの権力の源泉であることを知っています。違法性の基準を明らかにすることは、自らの裁量権を手放すことを意味する。まともな官僚なら、そんなことをするわけがありません。

 では、具体的にどんなケースが違法とされるか。それはズバリ「生意気な奴」です。典型は Winny の作者金子勇氏みたいなタイプ。ファイル共有ソフトを作ることそのものは、本来何の罪に問われるようなものではないのですが、彼は既存の著作権法に挑戦的な発言を繰り返した(と思われた)ことで、「お上」の逆鱗に触れました。また、分野は違いますが、最近、実刑が確定した堀江貴文氏も非常に分かりやすい例です。普通、粉飾決算で経営者の責任が問われることはありません。2006 年に発覚した日興コーディアルグループ粉飾決算事件の規模は 180 億円ですが(ライブドアは 53 億円)、5 億円の課徴金が課されただけで、逮捕者は出ていません。

 「とりあえずほとんどが違法となるような厳しい立法を行い、いつでも摘発可能な状態にしておく。生意気な奴が現れたら見せしめも兼ねて吊るし上げる」。これがわが国のエリートが何百年もかけて洗練させてきた統治技術の極意です。これを繰り返すことで、民衆も学習して、せっせと献金したり、天下りポストを用意して、何とか自分だけはお目こぼしをいただくよう努力するようになります。たまに堀江氏みたいに「不公平だ」と騒ぐ虫けらが現れますが、牢屋にぶちこんで黙らせてやれば、みんな震え上がって宣伝効果も抜群です。

 このダブルスタンダード運用は、日本における統治の基本形なので、探すとあちこちに同型の事例が見つかります。昨年見かけたのでは、こんにゃくゼリーの窒息事故を受けた消費者庁マンナンライフに対する要請なんかそうです。こんにゃくゼリーより危険な食品は山ほどあるし、特に「餅」の凶悪さは以前から指摘されていますが、なぜか野放しのままで、いつもこんにゃくゼリーだけが槍玉にあがる。マンナンライフが生意気な会社という印象はないので、むしろこの件については、農協がバックについている米が「お目こぼし」を受けている、という解釈の方が自然かもしれない。

 こういうダブルスタンダードによる支配は、法による支配とは対極の方法だし、前近代的なものです。だから私も嫌いなのですが、でも、長く続いてきた制度である以上、これにはそれなりの合理性もあるのかもしれない。まあ何事も、多面的に考えてみるのは大事かなと思って、私は最近、ダブルスタンダードとか弾力的運用のポジティブな側面は何だろうと考えています。皆さんなら、どんな利点を見出すでしょうか。面白いものがあったら教えてください。