原発は本当に安価なエネルギーか

 先週、イタリアでは原発再開の是非を問う国民投票が行われ、反原発票が 9 割を超える大差で否決されました。これに対しては、反原発というより反ベルルスコーニ政権の気運が高まったことを示すという評価もあるようですが、ともあれ、ドイツに続きイタリアも国レベルで反原発に舵を切ることになりました。欧州では「スパゲッティ」と呼ばれるほど国家間の電力取引が活発なため、今夏には電力市場にも大きな動きが出るでしょう。

 一方、日本ではまだ原発の是非を国民全体で問う事態にはなっていません。現政権が原発解散を行う可能性はゼロではないものの、政局の流動性が高く、今後の見通しは相変わらず不透明です。しかし、日本においてもいずれ原発に対する態度を決めなければならない日が来ます。さしあたっては、電力不足が懸念される夏までに、浜岡や福井の原発を再開させるかどうかを決めなければならない。

 その判断をするためには、原発のメリットとデメリットを、感情的にならずに比較できるようになっておく必要があります。先週は実業家の堀義人が、反原発の立場を攻撃して物議をかもしましたが、論の内容はともかくこういう態度は無意味に人を争わせるだけで、全体には寄与しない。

 そして、原発問題を考える際には最も重要な論点で、堀氏が言及していないことがあります。それは原発が本当に安価なエネルギーなのか、という経済合理性の観点です。原子力は一般に、石油や天然ガスなどに比べれば非常に低コストなエネルギーだと考えられています。しかし、その低コストは実は、外部不経済を無視する形で実現されている可能性がある。

 経済学者の中には、池田信夫氏のように、たとえ現在外部へ転嫁されているコストを内部化しても、原発の経済的な優位性は揺るがないと推測する人もいます。一方で、保険まで考えれば原発はとても高つく選択肢だ、という主張もあります。これを取り上げたのが、ABC News の記事「適切な保険は高すぎる」です。

 保険。そう、危険なものを取り扱うのだから当たり前といえば当たり前のことですが、原発にも保険がかけられることがあります。皆さん知ってました? 私は、恥ずかしながらこの記事読むまで思い至らなかった。果たして、その金額は適切と言えるだろうか、というのがこの記事の問いかけです。

米国でも日本でも、十分な保険に入らずに車の運転をすることは違法だ。しかし、各国政府は、世界に 443 ある原子力発電所にほとんど保険をかけないまま運転している。

 
日本の福島第一原子力発電所の事故は、納税者たちに多額の請求書を突きつけるだろう。このことは、原子力産業の重大な弱点を明るみに出すことになる ―― 原子力が安価なエネルギーだと言えるのは、それにかかる保険を考えないときだけだ。東京電力は、一切の災害保険をかけていなかった。
 
原子力を使用する政府は、低コストな電力という効用と、いったん起これば国を破産させかねない破局との間で引き裂かれている。

 では実際に、保険をかけている政府または電力会社は、具体的にどの程度の金額を積み立てているのか。ドイツでは、最悪ケースの原発事故が起きた場合、被害額は 11 兆ドルと推定されています。これに対して、強制保険の額は 3.65 億ドル。絶対額で見ればそれだって大した金額ですが、いざ事が起きたときにはスズメの涙です。また原発事故の場合、傷病や自動車事故と違って大数の法則も働かないため、地震保険のように部分的に国家が負担しなければならないでしょう。ということは、結局そのコストは国民全員で負担せざるをえない、ということです。フレンスブルク大学の経済学者ホーメイヤー(Olav Hohmeyer)氏はこう言っています。

もし全ての外部費用を全て内部化すれば、結論は明らかだ。原子力は経済的にみて合理的な選択肢ではない。原子力のリスクを負えるのは、それを広い社会に外部化した場合だけだ。

 原発に対するリスク計算が妥当かどうかは、慎重な考察が必要なところです。またそれだけでなく、何を原発の外部費用としてカウントするか、という点についても考えなければ、原発の経済合理性を正しく理解することはできない。原発に対する態度を決めるには、そうした情報が必要なのです、経済学者や実業家の方には、そのような情報を提供する仕事こそ期待したい。

 なお、上記で紹介した堀氏の反原発派への批判的な発言に対して、「堀氏が親原発な発言をするのは、彼自身、原子力産業に深い関わりを持つからだ」という批判を見かけることがあります。いわゆる「それはポジショントークだ」という批判です。私は、これはフェアなやり方ではないと思う。堀氏が原子力産業に関係を持っていることは、彼自身が認めています。でも、立場と主張の妥当性とは切り離して考えるべきことです。社会の中で特定のポジションを占めていない人などいないのだから、私たちの発言は全てポジショントークです。「それはポジショントークだ」というのは批判として意味をなさない。

 もしかすると、彼の父親が原研や動燃に勤めていたことは、堀氏が原子力産業を擁護したいと考えた動機ではあるかもしれない。でもだったらなんだと言うのか。それと彼の主張の根拠とは切り離して考えることが可能なものだし、またそうするのが議論における最低限のルールなのです。政治は政治、科学は科学。この二つの世界を混同してはいけない。