なぜ日本人はサービス残業が好きなのか:速水融『歴史人口学で見た日本』

 日本と欧米の産業構造の比較をしたとき、両者の差として指摘されることに、前者は労働集約的で後者は資本集約的、というものがあります。平たい言葉で言うと、コストに占める割合として、人件費(労務費)が高いか、固定資産費(設備費)が高いか、という違いです。一般に、前者のような労働集約産業の方が人手に頼ることが多く、非効率的で労働生産性が低いと言われています。実際、日本生産性本部の最近の報告では、日本の労働生産性OECD 30 カ国中 20 位、G7 中最下位となり、まあ誉められた成績ではありません(ちなみに G7 中最下位なのは 1994 年から 15 年連続)。

 生産性が低いということは、働く時間が長いわりに儲かっていない「貧乏暇なし」を地で行っているということです。日々現場で身を粉にして働いている我々としては泣きたくなるような話ですが、これが事実であることは、統計をとって数字を見せてもらうまでもなく、日本企業で働けば嫌でも実感しますし、社員の人権を平然と無視して死ぬほど働かせる「ブラック会社」が跋扈していることも周知の事実です(こうした会社についての情報を得ることは、就職活動を行う学生にとっては死活問題になっている)。私たち日本人が、GDP のわりに幸福感を感じられないのも、可処分時間が少ないことと無関係ではない。

 いや、とにかく働く以外に手段がない、それ以外に生きていく道がないのだ、というのなら、我々とて文句を言うべきでありません。無いものねだりをしても仕方ない。そして確かに、資本集約的産業をやろうにも、資源のほとんどない日本では難しいのも事実です。よく言われるように、日本が持っている資源は人間しかありません。しかしどうも日本の問題は、その人間という資源を有効利用できていないことにある。日本の労働者の教育程度は高く、個々の要素技術に関しては世界的にレベルの高い技術者も多く擁しています。ところが、私たち日本人は今でも、敢えて効率的な働き方をよしとせず、泥くさい人海戦術や根性によって物事を解決することをよしとする心性を心の奥に抱えている。

 かつて私たちの先輩は、昼夜を問わず働き、しばしばその対価すら求めませんでした。「サービス残業」という言葉は、今でこそ忌避すべき法令違反という受け止められ方をしますが、以前はどれだけサビ残をしたかで職場での「格」が決まる時代があった。残業代なんて申請しようものなら、神風特攻隊の志願書に一人だけ「希望せず」と書いた非国民みたいな扱いを受けた。海外から「エコノミックアニマル」とか「社畜」と侮蔑されようとも、むしろ「社畜ですが何か問題でも?」と胸を張るぐらい、自分たちの価値観に自信を持っていた。本書は、この日本人の強固かつ特異な職業倫理がいつ、どのようにして成立したのかという問いに、興味深い洞察を与えるものです。

 本書が注目するのは、江戸時代の農村に起きたある変化です。「宗門改帳」という寺社がつけていた信者の管理台帳を調べることで、著者は 1600 年代前半から、日本各地の村で人口が急増しはじめることを発見します。人口が増えるということは、その増分を養うだけの食糧生産も必要になるということです。当時は、現代のように飽食の時代ではありません。飢饉による廃村や子供の間引きも当たり前の時代でした。

 当時の人々は、この喫緊の問題に対して、農地をなるべく節約し、人手を増やすという解決策をとりました。既に、耕地面積を増やすことは限界に来ていたので、農地開墾というハード増設の選択肢はありえませんでした。ハードで無理なら、あとはソフトパワーで解決しなければならないのは、今も昔も変わらぬビジネスの原則です。

 ちょっと長くなりますが、本書の最も重要な箇所を引用しましょう。

 経済学では生産要素としてふつう、資本と労働を考える。資本部分は大幅に増えて労働は節約する、つまり資本集約・労働節約というのが近代の産業革命、あるいは農業革命である。けれども日本の場合はそうはいかなくて、労働集約・資本節約、つまり資本が減り投下労働量は増えるという方向で生産量が増大することになる。……
 
 問題は、それによって農業に携わる人々の労働時間や労働の強度が大きくなっていくことである。いままで一日 6 時間ですんでいたものが、8 時間、10 時間働かなければならないとか、いままで家族全員は働かなくてよかったのが、こんどは全員が働かなければならないというようになってくる。
 
 そうなった場合に、農民のそういう状況に対する反応がどうであったのかというと、これは日本独特だが、日本人はそこに労働は美徳であるという道徳を持ち込んでしまった。もちろんヨーロッパでも、いわゆるプロテスタンティズムの倫理において、勤労によって得た利益は認められるという考え方が出てくるけども、日本の場合は宗教ではなくて、実際の生活のなかで勤労は美徳であるという考え方ができ上がる。江戸時代にたくさんの農書が出されたが、そこには必ず、一生懸命働くことはいいことだと書かれている。(pp.97-8)

 著者は、この日本独自の生産様式の変化を、産業革命(industrial revolution)をもじって勤勉革命(industrious revolution)と名づけました。これは確かに革命と呼ぶにふさわしい大変革で、以降、農村の生活水準は、ぐんぐん上昇していくことになります。

 おそらく、筆者が推測するように、労働を美徳する倫理観が大多数の日本人の中に醸成されたのも、この革命と関係しているのでしょう。そして、当時において、その倫理が非常に合理的なものであったのも確かです。少ないものを節約し、余っているものを大量に使う、という方針には全ての経済学者が賛同するに違いありません。そしてその後も、労働力が相対的に安価な生産要素である限りにおいて、人間を働かせて働かせて働かせるという方針は、正しいものであり続けたのです。女工哀史にも、高度経済成長時代に「人件費はタダ」と豪語して部下にサービス残業を強制していた管理職にも、経済合理性はあった(労働者の権利がどうこう、という話を別にすれば)。

 しかし、その合理性は徐々に崩れつつあります。日本人と同じだけの(時には日本人を上回る)アウトプットを出すのに、人件費は半額以下の中国人やインド人。そしてその後ろに長蛇の列をなして仕事を待っている BRICS 諸国の人々。さらに大きな問題として控える少子高齢化。江戸時代とは逆に、今後の日本において生産可能人口が増えるという予測は一つもありません。勤勉革命から 400 年を経て、ついにハードとソフトの力関係が逆転したのです。今度は、江戸時代の人々が成し遂げたのと逆方向への革命を行わない限り、日本はジリ貧から逃れる術がない。人間を節約し、ハードで解決するのです。

 私たちにそんな意識上の大革命を起こす力があるだろうか? 昨今の危機対応に対する関係各所の gdgd ぶりを見ていると、望み薄な気もします。でも一方で、今の日本人は、かつて革命を成し遂げた人々の子孫でもある。そう考えると、追い詰められたときのポテンシャルは持っているに違いない。いま日本に必要なのは、今度こそ本当の産業革命、意識の革命です。それを起こせるかどうかに、日本の将来はかかっている。