その数学が勝負を決める:『マネーボール』

 評価:★★★★☆

 セイバーメトリクスという野球の戦術をご存知でしょうか。いや、戦術と呼ぶのは誤解を招くかもしれません。セイバーメトリクスは、送りバントやヒットエンドランのような、野球の試合中に仕掛ける個々の行為ではないからです。むしろそれは、チーム編成の方針に関わるものなので、戦略と呼んだ方が適切かもしれない。

 セイバーメトリクスは、過去の膨大なデータを集積して、統計的見地から野球というゲームを考える方法論です。可能な限り主観的判断を排除し、客観的データから選手や戦術を評価しようとします。この立場に従えば、ヒットと四球には差がありません。どちらも一塁に出塁できる、という結果だけを見れば同じだからです。従って、セイバーメトリクスでは「打率」という、従来の評価基準に従えば選手の年俸を決める重要な要素を、重視しません。代わりに、打率、四球率などをあわせた「出塁率」という総合的指標で選手を評価します。極端な話、打率が 0.00 の話にならない貧打であっても、選球眼がよければ OK 、と考えるのがセイバーメトリクスです。日本の野球でいうなら、野村監督の「ID野球」がこれに近いでしょうか。

 本作は、セイバーメトリクスを全面的に採用することによって弱小球団を強豪へ生まれ変わらせた実在のゼネラル・マネージャの物語です。自身がスカウトの主観によって判断され、野球選手として大成できなかったビリー・ビーンは、旧来の方法論に疑問を抱いており、オークランド・アスレチックスGM に就任する際に、客観的な数値による選手評価を採用します。そのとき、彼の右腕として活躍するのが、イェール大学で経済学を学んだ秀才ピーター。これまでの野球チームのスタッフにはいなかったタイプの人材です。

 彼らの極端ともいえるデータ偏重の戦略は、古株の監督やコーチ陣の猛反発を買います。「数学で野球ができるものか」と。しかしビリーたちは、毎年最下位争いをしていた同チームを、優勝候補の常連に押し上げることに成功、野球における統計の有用性を証明しました。

 筋書きだけ見れば、この映画は『メジャーリーグ』以来のスポーツものの王道です(弱小チーム、努力、挫折、勝利、そして最後に挫折)。しかし映画から一歩身を引いてみると、「統計分析による意思決定」という大きな潮流の一角を表していることが分かります。以前このブログでも取り上げた『その数学が戦略を決める』が多くの事例を挙げて力説するように、膨大なデータをかき集めてきてそこから有用なパターンを見出すという分析手法(データマイニング)は、最近のビジネスの意思決定のデファクトスタンダードになりつつあります。「マネーボール」は、それが野球という複雑なスポーツにおいても応用可能なことを示したのです。

 そして、監督やコーチといった古いタイプの野球人たちが、マネーボールを嫌うのは、ひとえにこれが彼らの仕事を奪うからです(劇中でも、ビーンのやり方を支持するレッドソックスのオーナーが、はっきりそう言っている)。これからの野球チームに必要なのは、百戦錬磨の監督でも生き馬の目を抜くスカウトでもない、統計学者だ――マネーボールはそう教える。勝ち方を人間に教わる必要はない。それは数学が教えてくれる。血の通わない冷たい野球が、熱い野球を駆逐する

 さらに、マネーボールは野球を呑み込んだだけでは満足していません。野球とは比較にならないほど複雑なゲームであるサッカーにおいても、その教義が正しいことを証明しようと挑戦しています。この挑戦が成功するかどうかは、まだ分かりません。しかし、私は十分に目はあると思う。本作は、熱い戦いを演じるビーンたちが持つ熱とは裏腹に、そのような、見ようによっては空恐ろしい時代の動きを表現しているのです。

 映画の出来としては、星4.0。ビーンを演じるブラピはカッコいい。試合に負けて椅子を投げる時も食べかけのポップコーンを吐く時もカッコいい。アーロン・ソーキン『ソーシャルネットワーク』を手がけた演出陣の仕事も見事で、流麗でテンポの良いセリフまわしは健在です。純粋なスポ根としても楽しむことは出来るのですが、それ以上の深いメッセージを秘めた傑作。