『Economist』:イランの市場原理主義

 今年の6月、重い腎臓病を抱えた堀内利信医師が暴力団から腎臓を買ったという事件が起きました。テレビをはじめマスコミでも大きく取り上げられたので、記憶されている人も多いと思います。

 日本では臓器売買は違法なので、その点で法を犯した医師の行為は咎められるべきものですし、暴力団と関係を持ったことも(病気の苦しみは想像するにあまりあるとはいえ)誉められる行為ではない。

 しかし、以前のエントリでも書いたとおり、この事件を単に医師個人の倫理の問題として片付けたのでは、何の解決にもなりません。臓器移植を望む人数に比べて、臓器の供給が圧倒的に不足していて、合法的にやすやすと臓器を入手できない現状が変わらない限り、たとえ非合法であろうと臓器を手にいれようと望む人は消えないからです。この問題の解決策はただ一つで、臓器の供給を増やすことです。それは、純粋に技術的問題です。

 先ほど臓器売買について「日本では違法」と書きましたが、これは他のほとんどの国も同じです。世界で唯一、合法的に臓器を売買できる国はイランだけです。『Economist』の伝えるところによれば、1988 年に腎臓提供者に報酬を支払う仕組みを導入してからわずか 11 年で、イランは臓器移植待ちのリストをゼロにすることに成功したそうです。堀内医師も、イランに住んでいれば、暴力団に頼ることなく腎臓を手に入れることができたでしょう。(イランが何を考えてこのラディカルな制度を導入したのか、私は知らないのですが、事情を知っている方がいたら教えてください。)

 一方で、臓器売買に対する人々の反発にも根強いものがあります。よく見られる批判としては「弱者への搾取だ」という主張です。実際、東欧の貧国モルドバ「臓器提供のメッカ」になっていて、生活苦から腎臓を売る人が跡を絶たないという。しかし、この批判は本質をついていない。きちんとした監視と規制の体制があれば、原理的には搾取を防ぐことはできるからです。イギリスの外科医団体はそうした臓器提供市場を作ることを提案しているし、倫理学者ジャネット・ラドクリフ‐リチャーズは、「娘に自分の腎臓を提供して命を救う父親」と「娘の命を救う手術の費用を払うために自分の腎臓を売る父親」を倫理的に区別できるか、という論法によって市場主義への批判に反論しています。臓器売買が禁止されている国では、前者の父親は自己犠牲の精神を賛美され、後者の父親は金の亡者として糾弾される。どちらも自分の子供の命を救うために自分の腎臓を提供するという点では同じなのに、これは矛盾した態度ではないのか?

 いったんラドクリフ‐リチャーズの議論に説得されたならば(私は十分に説得的だと思う)、あとは臓器市場の開放まで、倫理上の障害はありません。反対派もその危険を感じているから、議論そのものを避けて、あくまで感情に訴える戦術を主としている(これもまた合理的な態度です)。

 ただ私は、市場が本当に上手く働くかというと、それほどうまくはいかないとも思います。実際のところ、市場というのは機能させるためは、選択の自由や情報の対称性、独占・寡占の禁止など複数の条件を満たさなければならないし、監視コストもかかります。普通の商品市場だって機能不全や不正は日常茶飯事なので、臓器という文字通り死活的に重要な商品で機能するのかは、まだよく分からない。それでも、上手く機能したときのメリットの大きさを考えれば、検討せずに終わらせることは考えられない選択肢だ、というのが私の考えです。