話しあっても分かりあえないときはブロックしよう:東浩紀『一般意志2.0』

「ブロックせずに他者と渡り合うのが正義」というリベラルな思想は現実性の乏しい理想論というのがぼくのツイッターの見方で、そして一般意志2.0の主張でもある。

――東浩紀(2011年12月23日にTwitterで)


 本書は、ルソーとフロイトの思想を GoogleTwitter といった現代の最先端のアーキテクチャとの関連で再解釈し、それによって新しい社会像を描き出そうとした本です。

 本書の中には、ルソーから始まって、アーレントハーバーマス、ローティ、ノージックといった現代思想の固有名詞が数多く登場します。しかし、そうした固有名を全部スルーしても著者の議論の道筋は理解できますし、現代思想クラスタ以外の人にとってはむしろ、そういう読み方の方が目くらましにあわなくてよいかもしれません。

 骨子だけ取り出すと、本書の主張は簡単に要約できます。こんな感じです:

 民主主義というのは、物事を決めるのに時間がかかる。利害関係者、少なくともその代表者を一堂に集めて長い時間よく話し合うべきです、ということになっているからだ。でも社会が複雑になるにつれ、この「熟議」というプロセスは機能不全に陥いるようになった。熟議の最高機関であるはずの国会は空転し、増税原発といった多くの国民にとって重要な問題についても、きちんとした議論はできていない。

 こういう状況を見て、「まだまだ熟議が足りないのだ」と考えるのは、方向性を間違えていないだろうか。むしろ熟議に頼らなくても意思決定できるような仕組みを考えるべきときに来ていないだろうか。そもそも日本人は議論が下手だし、もともと「分かり合えるまでトコトン話し合う」なんてガラじゃなかったんだよ。背伸びして西洋人の真似をしてみたけど、やっぱり日本人にネクタイとスーツは似合わないみたいだ・・・。

 じゃあ熟議によらずどんな方法で意思決定するべきか。著者もそれほど多くの具体例は挙げていないのですが、Google の仕組みが重要な比喩として使われます。Google は、「良いサイト」を選びだすためのサービスを提供しています。ですが、その判断は Google 社員が直接やっているわけではなく、私たちユーザの意見を集約する形で行われています。しかも、ここが重要なのですが、私たちは「このサイトがいいと思う」と、意識的な形で投票活動を行っているわけではありません。私たちは、ただ Web という大海でサイトを作り、書き込み、それを読むという「日常生活」を営んでいるだけです。でも Googleページランクという仕組みによって、私たちの無意識の行動から選好を抽出し、実体化することに成功した。

 同じことが、Web 上の多くの活動に対して可能だ、と著者は言います。たとえば、Twitter の膨大なログを統計分析すれば、Google のように人々の無意識な選好を一つの社会的「意志」(それがすなわち一般意志)として抽出、実体化することが可能でしょう。そうしたアルゴリズムはまだ具体的に明らかではないけれど、でもそれが可能になれば、人々は話し合いを省略して意思決定を行うことができるようになる。民主主義は、人々が広場に集うことなく、家でネットばかり見ているニコ厨であっても機能する。

 このように整理してみると、著者の主張は目新しいものではない、と思う人もいるかもしれません。それはここ 10 年ほどで流行を見せている統計分析による意志決定とか集合知という概念を、ビジネスから政治の領域に広げてみただけではないのか、と。実際、著者も Twitter で、「一般意志はビッグデータに近い」と発言しています。IT 業界の人には、このバズワードはお馴染みでしょう。

 でも、著者は不思議なことに、この IT 技術によって作り出す一般意志、一般意志2.0 という概念を、生み出したとたんに脇へ追いやろうとします(「筆者は集合知によって条文や政策を作れるとは考えていない」p.192)。意思決定の主要なプロセスはあくまで熟議であるべきで、一般意志2.0 はそれに修正を加えるための補助ツールだ、というのが著者の位置づけです。これは穏健といえば穏健ですが、前半でルソーの一般意志を熱心に解説する部分と比べると、後半はトーンダウンしている印象が否めない。

 おそらく、その理由はまさにルソーにあるのでしょう。ルソーの一般意志は、原理主義的で危険な概念です。一般意志は完全無欠の社会的総意であるため、間違えることがありません。ゆえに、一般意志は社会のメンバーに対して絶対的な強制力を持ち、一般意志が死ねと言えばメンバーは死ななければなりません。国民に無条件の死を強制できる国家 ―― 私たち日本人は、そのような国家の姿をよく知っている。明治期の日本が、同じ社会契約論の思想家でも、革命権という爆弾を内包したロックではなく、全体主義へ道を拓くルソーを好んだ理由も分かります(ルソーには、ファシズム以降つねに、全体主義者の先祖という嫌疑がかけられている)。著者は、そこまで一般意志2.0を信用していない。

 その穏健さによって、著者の描く社会像は良くも悪くも現実的です。ここ数年のうちに実現するんじゃないかと思います。たとえば、「ニコ動で国会中継を」なんていう提案は来年にでも実現してもおかしくない。著者は本書を 50年後、100年後といった「遠い未来に向けて国家と社会を考える本」(p.262)と位置づけていますが、「ここ 10 年をうまく整理し、5 年後を的確に見通した本」というのが私の評価です。