教父たちの遺産:八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』

評価:★★★★★

 哲学の分かりにくさには、大きく二つの種類があります。一つが、純粋に論理的な難しさ。特に強い論理性への志向を持つ現代の分析哲学などを学ぶと、論理学や数学と類似の難しさを感じます。

 哲学のもう一つの難しさは、もう少し根が深く微妙なものです。それはしばしば「一体何がテーマなのか分からない」という困惑の形を取って現れます。実際、哲学を勉強してみようかな、と思って世評の高い哲学書を読んでみると、何の断りもなく細密な議論が始まって数ページでノックアウトされることが、よく起きます。典型的には、大学一年生がカントの『純粋理性批判』やハイデガーの『存在と時間』を読んで返り討ちにあう、というパターンです。

 そういう場合は「自分とは波長が合わなかったな」と割り切って他の本を当たる、というのも現実的な対処の一つです。哲学にも色々な分野があるし、哲学者も星の数ほどいます。中には説明の上手い人もいれば下手な人もいるし、今となってはどうでもいい問題にこだわっている人もいる。そういうのに付き合うのは、時間の無駄です。

 しかし、第二の難しさが生じる理由には、単に「合う合わない」だけではなく、もっと重要なものがあります。それは、読む側が書き手の置かれた文脈や背景を知らないことによって起こる、一種のミスコミュニケーションによるものです。哲学の名著にもよくあるのですが、論敵への反論や、投げかけられた疑問への返答として書かれていることがあります。しかし、そういう「前フリ」が本文に明示されていないので、その「常識」を共有しない後世の私たちには、問題文を読まずに解答だけ読むような違和感が感じられるのです(たとえば、前掲の『純粋理性批判』はヒュームの懐疑論への回答だし、『存在と時間』も師匠フッサール現象学を乗り越えようとする意図で書かれています)。

 そういう場合の分かりにくさを克服するには、我慢して読み進めるよりも、前提となる文脈を説明した解説書を読むのが助けになります。何百年も前に生きていた人たちと私たちでは、ライフスタイルやそこから導き出される常識的な物の考え方は違って当然ですから、まずはギャップを埋めてやる前準備が必要になるのです。

 本書は、そのような哲学者と私たちの溝を埋めることを目的に書かれた解説書です。しかも、相手にするのは中世ヨーロッパのスコラ哲学者。千年以上前の人々なので、時間的にも離れていますし、それ以上に、宗教が大きな壁となって立ちはだかる。非キリスト教徒にとって、キリスト教というのは本当に分かりにくい。そのアイガー北壁のような絶壁を、数十年間よじ登ってきた著者が、クライミングのコツを教えてくれるというのですから、4800 円は安い。安すぎる。ステマじゃないですって。本当ですよ。

 本書はスコラ哲学そのもののというより、その背景となる歴史や宗教について重点を置いた解説書です。もちろん、アンセルムス、アクィナス、スコトゥスなどスコラ哲学のビッグネームたちの哲学については、つながりを理解するために必要な最小限の解説は加えられていますが、それほど一人について細かく立ち入ることはしません。また、イスラム哲学についても一章が割かれているのみなので、そうした点が知りたい人は、別の本を当たる必要があります。
 私が本書を読んで驚いたのは、私たちの馴染み深い(そして一般的にはスコラ哲学には批判的と考えられている)近代の哲学者たちが、非常に多くをスコラ哲学から受け継いでいるという事実でした。デカルトライプニッツ、ベーコンといった近代を用意した哲学者の考えは、私たちの常識の土台を形作っています。例えば唯物論機械的自然観を、私たちの多くが無意識のうちに前提している。そして近代の哲学者は、そうした考えは自分たちが生み出した革命的アイデアなのだ、スコラ哲学は乗り越えられたのだ、と主張します。それは一部において間違いではないのですが、しかし実は、彼らはスコラ哲学から、実に多くの遺産を、こっそり相続していたのです。以下、私にとって「目から鱗」だったポイントを挙げてみます:

 

  • カントの自由意志論

 カントの自由意志の概念を最初に知る人は、異様な感慨に捕われます。「自由意志」と聞くと、普通私たちは、自分の欲求の赴くままに行動することを連想します。腹が減ったら飯を食い、眠くなったら眠り、ムラムラしたらセックルセックル。そういうフリーダムな衝動に突き動かされて生きる人を、私たちは「あの人自由だねー」と言います。しかし、カントはこのような生き様を自由とは見なしません。
 というのも、彼に言わせれば、このような動物的人間は、本能の命令に従っているだけで、そこには意志の介在がないからです。遺伝子によってコーディングされたプログラムに従って動く機械に過ぎない。現代的な語彙を使って表現するなら、そういう言い方もできるでしょう。
 では、カントの言う自由とは何か。それは、自分で決めたルール(定言命法)に従って生きることです。例えば「お腹が空いても夜ご飯までは間食しない」とか「オナニーは週一回」とかのルールを自分で決めてそれに従う(この行動をカントは「自律」と呼びます)。衝動をぐっとこらえ、遺伝子の命令に打ち勝つことの出来る人。それこそが真に自由な人である・・・。これは、倫理学では反功利主義陣営の理論的支柱です。昨年「白熱教室」でブレイクしたサンデルも、カントの倫理学を重視している。

 しかし、どうでしょう。「ヘンなこと言う人だなあ」と思わなかったでしょうか。私は、最初にカントの自由意志論を知った時からずっと奇妙だという印象を拭えませんでした。しかし本書を読んで驚きました。これと全く同じことを、カントより数百年前にアンセルムスが言っていたのです。

人は、たとえば耕作し、あるいは労働し、彼が有益と判断した生命と健康を守るものを獲得しようとする時、有益生のために何かを意志している。しかし、たとえば苦労して学び、正しく、すなわち、義に従って生きることを知ろうとする意志する場合、正直のために意志している。『自由選択と予知』(本書 p.222 より孫引き)

 この箇所を読んだ時、おいおい、カントの言ってることってアンセルムスのパクリじゃねえか! と一人で突っ込みをいれてしまいました。アンセルムスはここで、自由を神へ向かう態度、つまり正義の概念と結びつけて語っています。農民や労働者が働くのは「利益」のためであり、それは神ではなく、人間のための行いである(がゆえに不正義である)。アンセルムスは功利主義を認めません。利益を度外視して、常に神のために祈り勉学する修道士だけが、神へ向かっている(ゆえに正義である)。どうでしょうこのかぐわしいエリート臭は。当時にツイッターがあってこんなこと呟いたら、「お前が毎日食べるパンは誰が作ってると思ってるんだよ」という批判的 RT で炎上間違いなしです。しかし騎士道精神溢れるアンセルムス先生ならば「賎業に従事する社畜どもが小癪な! 破門してくれるわ!」と応戦して盛り上げてくれるに違いありません。ああ、見てみたかった。

 話を戻すと、カントはこのいかにも高飛車なエリート倫理から、宗教色を脱色して、普遍的に使える体系に改変した、というのが、あの奇妙な自由意志論の正体だったのです。カントも最初からそう言ってくれれば、私も迷わなかったのに。

 フッサール現象学の重要な方法論に、判断停止(エポケー)があります。これは、「当たり前に見える物事や言葉も、いったんその真理性を認めずに吟味の対象とする」という態度です。いまテーブルの上にコーヒーカップが見える。しかし、そこに本当にコーヒーカップがあると、本当に断言できるだろうか。それは幻覚かもしれないし、夢を見ているかもしれない。従って、「コーヒーカップがある」と断言することは控えよう、という懐疑的態度です。「カッコに入れる」という言い方もします。

 このエポケーという言葉は古代ギリシア語であることからも分かるように、「判断停止」の方法論そのものは、古代ギリシア懐疑主義派の哲学者たちも使っていた由緒正しい方法論です。しかし、これを哲学上の方法論として確立したのは、中世キリスト教の教父たちでした。彼らは、一度神の実在を「カッコに入れて」、本当に実在するかどうかを議論する、という道を選択したからです。

 これは少し説明を要する態度です。本来、すでに神を信じ、その実在を信じる者にとって、いまさら神の実在を証明するなどという行為は、蛇足以外のなにものでもありません。だから、敬けんなキリスト教徒であるほど、神の実在をカッコに入れる必要など感じないはずです。それにもかかわらず教父たちがエポケーを行ったのは、中世において勢力を得はじめた哲学徒の一派との対決を迫られたからです。その一派が、唯名論でした。

 唯名論は、言葉に対応する普遍的概念は存在しないと見なす立場で、神の実在にも懐疑的です。言葉による論証から導かれる結論しか受け入れない彼らは、いかに教父たちが「信じれば君にも分かる」と説いても、せせら笑うだけで取り合いません(この唯名論者の元祖がアベラール)。「神がいるという証拠を出せ」という唯名論と「信じれば分かる」という実在論は、本来的に平行線です。

 しかし、スコラ哲学が発展することになったのは、教父たちが一端、頑なな態度を横におき、敢えて唯名論の土俵の上に乗ることにしたからです。「よかろう。ひとまず神の実在は前提から外し、君たちの好きな言葉の論戦に興じよう。その上で、神の実在が証明されれば、いかに不信心な君らといえども神の実在にケチはつけられまい」。このようにして、唯名論者の投げた手袋を実在論者が拾うことによって始まったのが、(悪)名高い普遍論争です。教父たちはこの論争を通じて、言語から存在へのジャンプという不可能事を可能にする回路を模索することになります。幾多の「神の存在証明」は、このような背景から生まれることになった。

 信仰を括弧に入れれば、信仰内容についての権威がいったん失われるのだから、これは唯名論に近づくことである。なぜなら「信仰を括弧に入れる」とは、信仰の権威をいったんはずすことであり、たとえ対象が神の存在であっても、疑問を持たずに信ずることをやめて、なぜ神が存在するといえるのか、自分の掌において吟味検討することだからである。

 これは大きな、そして勇気のいる判断だっただろう、と個人的には思います。もし万が一、神の実在を証明できなければ、自ら神を否定するという墓穴を掘ることになってしまう。実際、教父たちの繰り出す神の存在証明は、いずれも決定的とはいいがたく、どちらかというと荒唐無稽なものです。ドーキンスのように、一つ一つ欠点をあげつらって嘲笑する者もいる。でも、私は彼らがリングに上がってくれたからこそ、その後の哲学と科学の発展があったことを考えれば、その勇気には敬意を表してよいと思う。

  • 言語はなぜ哲学の問題になるのか

 個人的に最も衝撃的だったのが、このポイントです。

 現代哲学に、分析哲学という分野があります。19世紀後半にドイツやオーストリアで勃興し、20 世紀に入って英米を中心に盛んになります。この分野を最初に勉強する日本の学生が少なからず驚くのは、その中心的なテーマが「言語」であることです。これは、日本での哲学のイメージがカント以降のドイツ観念論によって形成されたため、哲学と言えば観念を分析するものだ、という思い込みがあるためです。しかし、分析哲学は観念から言語へ、そのメインテーマを変えたのです(これを「言語論的転回」と呼びます)。

 従って、分析哲学はまるで言語学ではないかと思うぐらい、文法について緻密な分析を行います。哲学に何か深遠な真理を求めてやってくる学生の中には、無味乾燥な文法の講釈に幻滅する人も少なくありません(また、他の分野の哲学者からも「あんなのは哲学じゃない」と言われることもしばしばある)。
 西洋哲学の文法への常軌を逸したこだわり方には、私も特異なものを感じていました。ただ、同じ疑問を感じる人は海の向こうにも多いようで、分析哲学者のハッキングは、『言語はなぜ哲学の問題になるのか』という解説書を書いているぐらいです。

 しかし、ハッキングの本は、せいぜい遡ってもロックやホッブズあたりなので、本当に重要なところが分からなかったのですが、実は、文法研究の重要性にいち早く注目したのも、キリスト教の教父たちでした。なぜキリスト教において言葉が重要か。それは、「はじめに言葉があった」と聖書の最初に書いてあるので、言葉は神と同一、少なくとも対等の存在者だと見なされるからです(言葉を神が作った、とは書いていないので、もしかすると神より先に言葉があった可能性さえある)。つまり驚いたことに、言葉というのは彼らにとって「神」か、それに近い神性を意味するのです。

英語を学ぶ際に、名詞だ、形容詞だ、副詞だ、といって苦労していたとき、日本人のだれが神の発する言葉、あるいはキリストのことを考えるだろう。(p.97)
 

いうまでもなく論理学も文法も、ことばの使用に関する研究として、キリスト教哲学における特殊な重要性を持つ。キリストは「ことば」であり、正しいことばの使用こそ、キリスト教哲学を成立させる枢要な基盤だからである。(p.108)

 
「繰り返すが、「文法的」ということばは、中世のキリスト教的文脈においては、「神的」という意味に近づく意味をもっている。けして、わたしたちが英語をならうときに仕方なく覚え込まされた英文法のイメージを持たないでほしい。(p.109)

 文法の勉強をするときに神を思う人は、確かに日本人にはいない。もっとも、それは信仰の薄れた現代のヨーロッパの人々でも事情は同じようで、アンセルムスの文法を扱った作品は、ながらく「まったく意味のわからない作品」(p.96)とされてきたそうです。

 分析哲学者は、袋小路にはまりこんだ観念論から脱出するために「リングィスティック・ターン」を決めてドヤ顔でしたが、中世の教父たちがその様を見たら、「おいおい、今頃になって言語に回帰してきたのかよ。何週遅れだ」と呆れたかもしれない。

 以上、長くなりましたが、私がこの本から衝撃を受けたポイントを三点紹介させていただきました。本書ではこれ以外にも、可能世界と様相論理、生命倫理学の基礎概念であるパーソンの概念など、現代哲学の主要な概念が、実はキリスト教哲学にその淵源を求められることを明らかにしています。中世哲学に興味ある方はもちろん、たとえ近代以降の哲学にしか興味のない人であっても、必ず得るもののある名著です。