豹変しない日本人

 先週、大阪市の橋下市長が、関西電力大飯原発の再稼動を容認する声明を出しました。これまで積極的に脱原発の方針を推し進め、原発の再稼動にも反対してきた橋下氏としては、ほぼ180度の方針転換といってよい内容です。

 長期的な方向性としては脱原発にも合理性はあるものの、直近の電力供給事情を考慮すれば、「机上の論だけではいかない」という橋下氏の判断は現実的なものです。あまりに潔い転換だったので、あるいは、最初からこのあたりの落としどころを狙いつつ、当初から容認の姿勢を見せては電力会社がつけあがるので牽制していただけなのでは? という疑念も浮かぶぐらいですが、これは憶測の域を出ません。

 今回の件もそうですが、橋下市長には、よりよいオプションが出てきたらすぐに旧来の路線を捨てて乗り換える、という柔軟さがあります。それは一面では、一貫性がないという批判も可能な態度ですが、しかし大阪市という巨大なシステムを運営する立場にあることを考えれば、市長として大事なことは、一貫した主張に従って間違えることではなく、無軌道であろうともシステムをクラッシュさせることなく維持することです。橋本市長はよく自分を学者と対比して「非インテリ」を標榜していますが、それはこのような柔軟なプラグマティズムの表明とも受け取ることができます。

 もっとも、このように間違いをすぐに認める、もっといい方法があるならそれに乗り換える、という態度は、昔から責任ある大人の心構えとして重視されてきたものです。すでに易経に「君子は豹変す」という言葉がありますし、孔子も「過ちては改むるに憚ること勿れ」と言っている。とはいえ、そうは言ってもなかなか・・・。人間誰しもプライドがあるので「自分がバカでした。どうもすいません」と素直に頭を下げるのは、(頭がよく有能な人であればあるほど)簡単にはできない。橋下市長の「非インテリ」という自己規定は、そういう心理障壁を下げるための役割も果たしているのかもしれない。

 また、自分の間違いを素直に認めることが難しい理由には、そうした行為を周囲が評価しない、という問題もありそうです。実際、今回の橋下市長の方針転換についても(特に脱原発派からは)「変節」と批判されているし、頻繁に政見を変える政治家は「風見鶏」と揶揄されます。自らの主義主張に頑固一徹な人を「軸がブレない」と評価し、「転向」した人間を一段低く見る傾向は、多くの人が程度に差はあれ心の中に抱えています。最近では、政権を取った政党がマニュフェストを守らないと、理由いかんによらずそれだけで批判されたりしますし、戦後の一時期、日本で共産党が一定の勢力を得たのは、共産主義者が戦前戦中に、投獄されようとも非転向を貫いたことで、人格の高潔さが評価されたからでした(そのような非転向が持つ頑迷さの危険を指摘したのが、最近他界した吉本隆明です)。

 もしかすると、私たちがこのような「変節」や「転向」を忌避する背景には、ある種の人間観、日本人に固有のバイアスが潜んでいるのかもしれません。それは、「人間の賢さにはピークがあって、大人になってからさらに賢くなることはない」という頭打ち人間観です。The Economist の記事「私たちは歳を取るほど賢くなるか?」では、日米の成人に対して一種の知性テストを行って、年齢によって賢さに差が出るかどうかを比較する研究が紹介されていました。結論は、次の二つです:

  • 若いときは、日本人の方がアメリカ人よりも賢い。
  • アメリカ人は年齢とともに賢くなるが、日本人はあまり変わらない。そのため人生の後半ではアメリカ人が逆転する。


 この結論は、これまでも日本人とアメリカ人の「成長曲線」について巷で言われてきたことと一致します。日本では、大学受験が厳しいため、子どもの頃にかなり勉強します。でもいったん大学に入ってしまうとそこはレジャーランドだし、大学院に進むと就職先がないということで学部で卒業する人が多いし、いったん卒業したらもう大学に戻って再度勉強する人もほとんどいません(大学への入学者に占める社会人の割合は、OECD 平均が 21.3% に対し、日本は 1.8% )。そのようなわけで、日本人の知的能力については、以前から「18歳限界説」が唱えられていました。ユニクロのように大学卒業していなくても内定を出すという採用方針を打ち出す企業も、この説を支持していると言えるでしょう。

 一方、アメリカの場合は、高校までの勉強はそれほど厳しくなく、大学の入試も(一部エリート校を除けば)ゆるいと言われています。その代わり、大学でも勉強をサボればすぐに退学になってしまうし、社会人になった後でもキャリアアップのために大学院へ戻って勉強する人も少なくない。そのようなわけで、若い頃はアメリカ人より上を行っていた日本人は、何十年後かにはアメリカ人に負けてしまう・・・こう書くとなんだかウサギとカメの話みたいですが、私たちが政治家や学者の食言を嫌う心理には、自分たちがカメではなくウサギなのだと、心の奥では知っているからなのかもしれません。