アフリカンパワーは存在するのか

先週閉幕した夏の甲子園で活躍した関東第一のオコエ瑠偉について、フジテレビなどがそのアフリカ系の出自をクローズアップしたことが、人種差別的だとして一部から批判を浴びました。

オコエ瑠偉をフジテレビが「アフリカン・パワー」と紹介 非難の声も - ライブドアニュース

私もたまたま中京と関東第一の試合をリアルタイムで見ており、1回の中京先制のチャンスをオコエが見事な守備で防いだシーンには思わず感嘆しました。

こうした身体能力における遺伝的な違いというのは、どの程度スポーツにおいてものを言うのでしょうか。現在行われている世界陸上を見ていても、アジア系というのは一部の長距離などを除いて苦戦しており、やはり他の黒人や欧米のアスリートよりは骨格や筋肉において不利なように見えます。また、欧州や米国にわたった野球やサッカーの選手は、口々に日本人との体格差について語ります。一方の黒人アスリートたちの中にも「自分たちは身体的に他の人種と違う」と遺伝的優位性について言及する人々がいます(往年の金メダリスト、カール・ルイスや殺人事件の被告となったことで有名になったO.J.シンプソンなど)。

エンタイン『黒人アスリートはなぜ強いのか?』は、この問題について行われた科学的調査を調べて、「遺伝か環境か」の問題を論じるとともに、生理的・身体的特徴を遺伝に帰す議論について回る人種差別の問題の歴史についても考察しています。

黒人アスリートはなぜ強いのか?―その身体の秘密と苦闘の歴史に迫る

黒人アスリートはなぜ強いのか?―その身体の秘密と苦闘の歴史に迫る

科学的には、西アフリカ系の人々が持つ遺伝的特徴は皮下脂肪が少なく、腕のリーチが長く、速筋の割合が高いといった単距離やアメフトに有利な傾向を持っており、反対に水泳やマラソンには不利に働きます。我々が一般的に抱く黒人アスリートのイメージは、こうした遺伝的特徴によって形造られています。一方で、東アフリカ系は肺活量が多いなど、有酸素運動に強い特徴を持っており、ケニアなどはマラソン選手を輩出しています。

もっとも、スポーツは単純な力比べではなく、複雑な技術と戦術が組み合わさって成立する活動であるため、遺伝だけで勝負がつくわけではありません。そこには長い修練による技術の習得と、知的な戦略的駆け引きが関係する。野茂が米国にわたる前は、日本人選手がメジャーリーグで活躍できると考える人間は皆無でした。本書の著者ですら、日本人選手が野球で米国で成功するのは難しいだろうと予想しています。しかし、今の私たちは松井秀喜ダルビッシュ有田中将大、上原浩二、岩隈久志といった少なからぬ選手が、圧倒的な体格差をはねのけて活躍したことを知っています(一方、陸上は戦術の入る余地が少ないので、やはり東アジアの選手は不利になる)。

こうした身体的特徴に対する遺伝の役割を認める議論の持つ難しさは、本書も指摘するように政治的なものです。すなわち、冒頭でも紹介したような人種差別的なイデオロギーに利用される危険です。身体的特徴に人種間の遺伝的な差があるのならば、悩の構造や知性のレベルにも同じことが言えるのではないか? これは人をたじろがせる問いです。一歩踏み外すと優生学的な差別思想につながるため、特に米国ではこうした言説や研究がタブー視されてきました。かつて米国では、黒人アスリートの身体能力が高いことは、彼らが人間よりも動物に近い――すなわち下等な生物だ――ことの表れだというすさまじい言説までまかり通っていた過去があり、その反動というわけです。

しかし、仮に人種間で知性に差があることが「科学的に」証明されたとしても、それが人種差別を正当化する理由になるわけではない。それは、身体障害者の人権が、心身の機能不全を理由に制限されるべきではないのと同じです。事実と価値の領域には厳然たる境界線があり、それを混同するのは、愚か者だけがやることです。しかしそれでも、身体的特徴の遺伝差というテーマに触れたとき、多くの人が警戒を強めるのは、このきわどい境界線へ接近することを感じるからでしょう。でもそれはそれで、今度は科学的事実から目をそらせる宗教的圧力になることもある。事実と価値の峻別は、今でも私たちがケリをつけられていない問題なのです。

アメリカの体制が、黒人と白人をめぐっての発言にきわめて神経質なのはわかっています。しかし、科学を否定するわけにはいきません。昼を夜だと言ったり、夜を昼だとは言えないのです。これは事実なのです。

――ギデオン・エーリエル