つまらない学問は、罪である:パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』

 社会学。これほど人によって抱くイメージに開きがある学問も、そうそうないでしょう。私自身、大学時代に社会学専攻の人々の話を何度か聞く機会がありましたが、その無節操に広大な関心領域と、ほとんど実証性があるとは思えない、いい加減な方法論に圧倒されたものです(学生30人に対するアンケートって、現代日本を論じるためにそんなに頼りになるデータなのか?)。

 もちろん、この見方にも多くの偏見が入り込んでいることは、私もほどなく気付きました。優れた社会学者の仕事は眼を見張るほどエレガントなものだったし、綿密に資料あたり、きちんとした統計に基づいて論拠を提出する良心的な社会学者も、いることはいる。

 それでもやっぱり、心の底でこの学問に対する不信感を払拭することはできずにいました。何だかんだ言って社会学って、特定の利益集団イデオロギーを正当化するためにこさえられた、学問の形をした隠れ蓑じゃないの? だからむしろ、この学問にとっては科学性なんて邪魔にしかならないんじゃないの?

 マッツァリーノ『反社会学講座』は、こんな門外漢からの素朴な疑問に答えてくれた爽快な本です。本書は、この問いに二つの方向から答えます。まず一つは、「そう、社会学は確かに非科学的でいい加減な学問なのだ(p.15)」と、普通の社会学者なら口が裂けても言いたくない事実を認める真正面からの回答。少年犯罪が最近になって増加したという「証拠」を示すグラフがいかに恣意的に作られたものか、なぜ少子化に全ての社会問題の責任を押し付けたがるのか。フリーターが悪いというけれど、日本なんてヨーロッパに比べればまだフリーターが少ない方。なんでそんなに批判する必要があるのか?

 こうした社会学内部の膿を剔抉する見事な手際は、まさに「反社会学者」の面目躍如です。ある意味、同業者を背中から撃つに等しい所業なのですが(実際、他の社会学者から本書はその点が「非道だ」という批判を受けたという(p.22))、そんなの知ったこっちゃありません。学者が気にしなければいけないことは、事実か、事実でないかであって、倫理的に優れているかいないかではありません。それを論じたいなら学者の看板を下ろしてからやることです。

 でも本書の一番の価値は、そういう「内部告発文書」としてのものではありません。凄いのは、第二の答え ―― 「事実を大衆に伝えるためには、正しいだけではだめだ」という認識の方です。これを理解していただくためには、まず著者の寄ってたつ「人間いいかげん史観」という大胆な仮説からご説明せねばなりますまい。おほん、この仮説は、大きく次の4つの基本的な人間理解の命題からなります。

 一、人間は「正しいけど不快なこと」と、「間違ってるけど気持ちいいこと」では、後者を選ぶ。
 ニ、人間は「難しいこと」と「簡単なこと」では、後者を選ぶ。
 三、人間は「苦しいこと」と「快適なこと」では、後者を選ぶ。
 四、人間は「都合の悪いこと」はすぐに忘れる。

 社会学非科学的な駄弁に陥ることは、これらの基本公理から論理的必然性をもって証明されるわけです。要するに人間は、聞きたくないことは聞きたくないし、認めたくないことは認めたくないし、自分が損するのはやだし、自分が得するためには他人を損させてもいいし、難しいこと考えるのも嫌な生き物だ、ということです。いや、中には例外的に立派な人もいますよ、ええ、そこまでは否定しません。ここまで読んで「ムカッ」としたあなたは、きっとそうなんでしょう。でも今は「社会」全体の話をさせたいただいている次第でして。

 それでですね。反社会学者が訴えたいことというのは、大体において、「正しいけど不快なこと」とか「(ちょっと)難しいこと」とか「都合の悪いこと」だったりするわけなんですよ。これが。こんなこと真正面からぶつけても、「つまんない正論家」とか「洒落が分からない」とか言われて煙たがられるだけなのは、公理から明らかです。

 だから、こういうときは責め方――じゃない攻め方をね、搦め手に変える必要があるわけなんざんす。前でダメなら後ろから。「正しくいこと」を面白おかしく伝える。この点で、本書は「超社会学」入門にもなっている。今までの社会学の限界を打破し、広く大衆にアピールする方法論を確立した(というか復活させた)のですから。そう、復活です。このやり方って、実は別に新しいものじゃないんです。とりあえず自分の言いたいことに興味ない人々を振り向かせる方法としては、むしろ古典的なもので、この「撒き餌」戦法がうまいのは、昔から宗教家と詐欺師です。民衆に教えを広めるために聖典の文句にメロディや踊りをつけたり、「信じれば天国にいけるぞ」とか適当な法螺ふいたり。

 私たちは、この強力な布教活動家がなぜだか合理主義派についてくれたことを、感謝しないといけない。著者の才覚をもってすれば、詐欺まがいのエセ社会学者として辣腕を振るうことだって容易に可能だったはずなのだから。人間いいかげん史観に沿えば、著者がその道を選んでもおかしくなかったのに、なんでわざわざ物好きにも苦労する方に来ちゃったんでしょうね? 一度機会があったら聞いてみたいものです。

 補記:

 この名著にも、しかし一つだけ気になったところがあります。文庫版に新たに収録された「三年目の補講」の第17回。環境保護運動が本当に役に立つものかどうか、怪しいものだというロンボルグ(および訳者の山形浩生)を筆頭とする環境危機懐疑派の人々がなぜ主流派になれないか、ということを論じた箇所で、著者は「人は正しさではなく、楽しさで動くもの」だから、という「人間いいかげん史観」をここでも繰り返します。それはいいのだけど、困るのは、ゴアに代表される「環境危機をあおる人たちの活動も、おおいに評価する」(p.296)とまで言ってしまったこと。

 ラテンノリの好きな著者は、人間の不合理な情熱とエネルギーを高く評価して、それをうまく利用する術を随所で披露しています(この無軌道な本を貫く数少ないテーマの一つと言っていい)。「偽善はやめさせるのではなく、積極的に社会のための利用すべき」(p.333)という現実主義的な著者からすれば、環境保護運動を利用してやろうと考えたくなる気持ちはわかります。でも、やっぱりそれは、心の中で思っていても口に出しては言ってはならないことですよ。むしろ懐疑派の面白さを引き出してこちらに客を呼び込むことこそ、「知の戯作者」たる著者のやるべきことのはず。それは著者をおいて他にできない。山形浩生をもってしても無理だし、池田信夫にいたっては怒らせることしかできない。いや、それ以前に、多くのいい加減な人々に、彼らの声は届かない(それは啓蒙家にとって最も辛い事態だ)。

 懐疑派は歴史上いつでも少数派だったし、これからもきっとそうでしょう。懐疑派の側に立つということは、永遠に負けつづける覚悟を決めることかもしれない。でも「それがどうしたい、こちとらラテン生まれの江戸っ子だい」と笑い飛ばすエンタメ精神こそ、反社会学の真骨頂だったはず。