リベラルからの挑戦状:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』

 先月、菅首相が就任演説を行った際、目指すべき社会のスローガンとして「最小不幸社会」という言葉を使ったことは、記憶に新しいところです。ただ、それが具体的にどのような社会なのか、詳しい説明がないので、中身は推測するしかありません。

 最小不幸社会を実現するための手段として、社会保障の充実が柱になっていることから見ても、それはいわゆる「最大幸福」を目指す功利主義的な方針ではないでしょう。この考え方に基づくと、社会全体で見て、幸福(快楽)から不幸(不快)を引いた残高が一番高い状態を目指すことになります。社会が100人だけで構成される単純なモデルで考えると、社会の最底辺の10人の幸福度が -100,000 で残りの 90 人のそれが +100,000 である社会は、最底辺の10人の幸福度が -100 でそれ以外の90人の幸福度が +100 である社会より望ましい、ということになる。前者の方が格差の大きい不平等な社会ではあるけど、社会全体の幸福度の総和が後者より大きいからです。こちらの社会の方が望ましいとする立場は功利主義と呼ばれますが、「日本全体の利益のためには沖縄には米軍基地のもたらす不幸を我慢してもらうのもやむをえない」という主張の基礎になっています。

 菅首相が「最小不幸社会」という言葉に込めた意味は、多分この反対です。つまり、社会の最底辺の人々の「不幸を最小化」するのが望ましいという前提に立ち、後者の平等的社会をより望ましいものとする。首相は自覚していないかもしれないけど、これはロールズ以降の現代のリベラリズムが正義の基準としてきた格差原理 ―― 社会の最底辺の人々の生活を改善できる場合を除いて格差を認めない ―― に基づく平等主義的な考え方です。

 アメリカの政治は、この平等主義的なリベラリズム民主党)と、功利主義と手を組んだ自由主義共和党)との対立を推力として進展してきました。日本の場合、自由主義陣営が貧弱で自民党民主党もリベラルという対立軸のない政治が続いてきたところが大きく違います。そのため今回の参院選もそうであるように「どっちを選んでも同じ」という選択しがいのない状況が頻繁に起きます(自民党の中では中曽根内閣と小泉内閣が例外的に自由主義を鮮明に打ち出していたので、この両内閣のときだけは国民も思想的選択を迫られた)。

 でも、アメリカと日本の政治思想にはもう一つ大きな違いがあります。それは、アメリカの政治思想が常に自らの拠って立つ根拠を言語化し、限界まで理性と論理によって突き詰めることで正当性を主張することが求められるのに対し、日本ではそのような圧力が存在しないことです。ロールズは自らの平等主義を擁護するために大部の『正義論』を著わし、ノージック自由主義を擁護するためにこれも大部の『国家・アナーキーユートピア』で対抗しました。日本では、ある価値判断を求められたときに、人々にそこまで突き詰めて考えさせる圧力はありません。菅首相に「なぜ最小不幸社会より幸福最大化社会はダメなのですか」と聞いても、「貧しい人がかわいそうだから」という感情的根拠しか出てこないでしょう。

 これは、一概に日本人の欠点というわけではありません。日本は十分に豊かで社会の均質性も高かったし、原理主義的な宗教の支配も弱かったので、人々がガチンコで自らの正義を戦わせるような争点が存在しなかったのです。それはある意味では非常に平和で、幸せなことです。ただ問題なのは、近年のように価値観が多様化し、世代間の経済的格差も広がり、人々の間で暗黙の価値共有が難しくなってくると、それまでの意思決定の術が通じなくなり、社会的な混乱が大きくなる。

 本書は、ハーバード大学での政治哲学の講義をもとに書かれた本で、Amazon でもベストセラーになっています。アリストテレスベンサム、ロック、カントからロールズノージックといった名だたる政治哲学者の思想をもとに、代理母や徴兵制、経済的格差といった現代の問題へ切り込んでいく、内容的には高度な本です。それがこれだけ売れるというのは、それだけ私たちが正義について論じる新たな方法を欲しているタイミングであることを示しています(一部には NHK の番組の宣伝効果もあるだろうけど)。

 著者はリベラル派の論客で、ノージックフリードマンといった自由主義者には批判的です。しかし同時に、ロールズ的な古典的リベラルに対しても距離を置いている。それは、著者に普遍的な倫理への強い志向があるからです(それゆえ、時代遅れとみなされがちなカントとアリストテレスへの評価が高い)。功利性や選択の自由だけでは、正義を基礎付けることはできないとして、「中立的な正義の原理を見つけようとする試みは、方向を誤っているように私には思える」(p.284)としつつ、近代以降の政治哲学が避けてきた道徳と善の問題へ踏み込まなければ、公正な社会を達成する正義の概念には到達できないと、著者は言います。

公正な社会は、ただ功利性を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに判断し、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。(p.335)

 志は高い。しかし、この方向を目指すことは、功利主義者や古典的自由主義者にとっての鋭い批判を投げかけると同時に、当のリベラル陣営に対しても高いハードルを設定することになる。というのも、公正な社会にとって、道徳的価値や善についての判断が不可欠であるとすれば、それは具体的にどのような内実を伴うのか、という当然の問いに答えなければならないからです。19世紀の奴隷制支持者も、20世紀のナチス党員も、自分たちは「共通善」を体現した思想のもとに生きていると信じていたでしょう。太平洋戦争時に「八紘一宇」を唱えていた日本人だってそれは変わらない。現代においても、9.11 に代表されるように、異なる「善」の衝突は止むことがありません。

 「普遍的価値」が本当に普遍性を持つと言い切れる基準は、一体何なのか? それは存在するのか? 私の信じる「善」が独善ではないと断言できる保証は本当にあるのか? 宗教的規範などのドグマを持ち出すことなくこの問題に答えることは至難です。その困難を回避したいがゆえに、ロールズノージックも正義の原理を道徳の問題から切り離し、価値中立的に論じようとした(ロールズは「善の希薄理論」という絶妙のネーミングをしている)。しかし、著者たち最近のリベラルは、彼らを乗り越えるために、敢えて危険な混沌の中に手をつっこもうとしている。

 この方向において、具体的にどのような答えが導けるのかは分かりません。著者もまだ答えに辿り着いていないと認めている。ウォルツァーテイラーのような正義の多元性を認めるという道は解の一つかもしれないけど、正義を実体的に描かない多元主義は、著者のような普遍主義への傾倒の強い論者には不満足に映るでしょう。著者がこの先どんな行程を辿っていくかは、見守るしかない。

 それにしても、本書を読んで、私が一番印象深かったのは、リベラルという立場の難しさです。宗教的原理主義者のようにズカズカと個人の内面へ踏み込むこともできず、リバタリアニズムのように選択の自由こそが全てと割り切って、鬼面人を驚かす派手なアイデアを続々と提出するわけでもない。正義という人類にとって究極の問題の一つを扱いながら、これというはっきりした答えも返せない。「リベラルの政治哲学は退屈だ」と言われる理由がよく分かる。リベラルにとって一番の敵は、功利主義でもリバタリアニズムでもなく、この「凡庸」さと、それに付随する退屈に耐えられない大衆かもしれない。